玉勝間 / 二の巻 又
此近き年頃となりては、やうやうに古學のよき事を、世にも知れるともがらあまた出來て、物よくわきまへたる人は、多く契沖をたふとむめり。そもそも契沖のよき事を知る者ならば、かれよりもわが縣居ノ大人の、又まさりてよき事は、おのづから知るらんに、猶契沖にしもとどまりて、今一きざみえすすまざるは、いかにぞや。又縣居ノ大人までは、すすめども、其後の人の說は、猶とらじとするも、同じ事にて、これみな俗にまけ惜しみとか云ふすぢにて、心ぎたなきわざなるを、必ず學者の心は、多くさるものなりかし、
新字:此近き年頃となりては、やうやうに古学のよき事を、世にも知れるともがらあまた出来て、物よくわきまへたる人は、多く契沖をたふとむめり。そもそも契沖のよき事を知る者ならば、かれよりもわが県居ノ大人の、又まさりてよき事は、おのづから知るらんに、猶契沖にしもとどまりて、今一きざみえすすまざるは、いかにぞや。又県居ノ大人までは、すすめども、其後の人の説は、猶とらじとするも、同じ事にて、これみな俗にまけ惜しみとか云ふすぢにて、心ぎたなきわざなるを、必ず学者の心は、多くさるものなりかし、
書き下し
この近き年頃となりては、ようように古学のよき事を、世にも知れるともがらあまた出で来て、物よくわきまえたる人は、多く契沖をたっとむめり。そもそも契沖のよき事を知る者ならば、かれよりもわが縣居の大人の、また勝りてよき事は、おのずから知るらんに、猶契沖にしもとどまりて、今一きざみえすすまざるは、いかにぞや。また縣居の大人までは、すすめども、その後の人の説は、猶とらじとするも、同じ事にて、これみな俗にまけ惜しみとか云うすじにて、心ぎたなきわざなるを、必ず学者の心は、多くさるものなりかし、
現代語訳
近年になって、ようやく古学の良さを世にも知る人々が数多く現れ、物事をよくわきまえた人は多く契沖を尊んでいるようだ。そもそも契沖の良さを知る者なら、彼よりもわが縣居の大人(賀茂真淵)がさらに勝って良いことは、おのずと分かるだろうに、なお契沖にとどまって、もう一段進めないのはどういうことか。また縣居の大人までは進んでも、その後の人の説はやはり取るまいとするのも同じことで、これはみな俗に負け惜しみとかいう類であって、心の汚いことであるが、学者の心とはきっと多くそういうものなのである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 あらたに云ひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事大かた世の常にことなる、新しき説をおこす時には、善きあしきを云わず、まず一わたりは、世の中の学者ににくまれそしらるるものなり。あるはおのがもとよりより来つる説と、いたく異なるを聞きては、善きあしきを味わい考うるまでも無く、始めよりひたぶるに捨てて、取りあげざる者もあり。あるは心のうちには、げにと思うふしも多くある物から、さすがに近き人のことに従わむ事のねたくて、善しとも悪しとも云わで、ただうけぬかおして過ごすたぐいも有り。あるはねたむ心のすすめるは、心にはよしと思いながら、その中の疵をあながちにもとめ出でて、すべてを云いけたむとかまうる者も有り。大かた古き説をば、十が中に七つ八つは悪しきをも、悪しき所をばおおいかくして、わずかに二つ三つのとるべき所の有るをとりたてて、力のかぎりたすけ用いんとし、新しきは、十に八つ九つよくても、一つ二つのわろきことを云いたてて、八つ九つの善き事をも、おしけちて、ちからのかぎりは、我も用いず、人にも用いさせじとする、こは大かたの学者のならいなり。
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『玉勝間』八の巻 ある人の云へることある人の、古学を、儒の古文辞家の言にさそわれて出できたる物なりと云えるは、ひが事なり。わが古学は、契沖早くそのはしを開けり。かの儒の古学と云うことの始めなる、伊藤氏など、契沖と大かた同じ頃と云ううちに、契沖はいささか先だち、かれは遅れたり。荻生氏は、又おくれたり。いかでか彼れにならえる事あらむ。
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『玉勝間』十一の巻 後の世ははづかしきものなる事安藤の為章が千年山集という物に、契沖の万葉の注釈をほめて、かの顕昭仙覚がともがらを、この大とこになぞらえば、あたかも駑駘にひとしと云うべしと云える、誠にさる事なりかし。そのかみ顕昭などの説に比べては、かの契沖の釈は、加うべきふし無く、事つきたりとぞ、誰もおぼえけむを、今また吾〓県居の大人にくらべてみれば、契沖のともがらもまた、駑駘にひとしとぞ云うべかりける。何事もつぎつぎに後の世は、いと恥ずかしきものにこそ有りけれ。
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『玉勝間』二の巻 師の説になづまざる事おのれ古典を解くに、師の説とたがえること多く、師の説の悪ろき事あるをば、わきまえ云う事も多かるを、いとあるまじき事と思う人おおかんめれど、これすなわちわが師の心にて、常におしえられしは、後に善き考えの出で来たらんには、必ずしも師の説にたがうとて、なはばかりそとなむ、教えられし。こはいとたっとき教えにて、わが師の、世にすぐれ給える一つなり。大かた古をかむがうる事、さらにひとり二人の力もて、ことごとくあきらめ尽くすべくもあらず。またよき人の説ならんからに、多くの中には、誤りもなどか無からむ、必ず悪ろき事もまじらではえ有らず。そのおのが心には、今は古のこころことごとく明らかなり、これをおきては、有るべくも有らずと、思い定めたる事も、おもいの外に、また人のことなる善き考えも出で来るわざなり。あまたの年を経るまにまに、さきざきの考えのうえを、なおよく考えきわむるからに、つぎつぎにくわしく成りもて行くわざなれば、師の説なりとて、必ずなずみ守るべきにも有らず。善き悪しきを云わず、ひたぶるに古きをまもるは、学問の道には、云うかいなきわざなり。
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『玉勝間』二の巻 あらたに云ひ出たる説はとみに人のうけひかぬ事然れどもまたまれまれには、新なる説の善きを聞きては、古きが悪しき事をさとりて、すみやかに改め従うたぐいも、無きにはあらず。古きをいかにぞや思いて、かくはあらじかとまでは思いよれども、みずから定むる力無くて、疑わしながら、さて有るなどは、あらたなる善き説を聞きては、斯くてこそはと、いみしく喜びつつ、たちまちに従うたぐいも有りかし。大かた新なる説は、いかに善くても、すみやかには用うる人まれなるものなれど、善きは、年をへても、おのずからつひには世の人のしたがうものにて、あまねく用いらるれば、その時にいたりては、始めにねたみそしりしともがらも、心には悔しく思えど、おくればせに従わむも、猶ねたく、人わろくおぼえて、心よからずながら、古きをまもりてやむともがらも多かり。しか世の中の論さだまりて、皆人のしたがう世に成りては、始めよりすみやかに改めしたがいつる人は、かしこく心さとく思われ、古きにかかずらいて、とかくとどこおれる人は、心おそく云うかいなく思わるるわざぞかし。
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『玉勝間』二の巻 おのが物まなびの有しやうかくてそのふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思いもかけぬ事のみにして、あまり事とおく、あやしきように覚えて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるよう有るべしと思いて、立ちかえり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやと覚ゆるふしぶしも出で来ければ、また立ちかえり見るに、いよいよげにとおぼゆる事多くなりて、見るたびに信ずる心の出で来つつ、つひに古ぶりのこころことばの、まことに然る事をさとりぬ。かくて後に思いくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、猶いまだしき事のみぞ多かりける。おのが歌まなびの有りしよう、大かた斯くの如くなりき。
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