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玉勝間 / 二の巻 神祇の歌

中昔よりこなた、ひたすら佛の道の意をもて、神の御事をも詠むは、かの本地垂跡の說にまどひて、神も本地はみな佛ぞと心得たるより、云ひならひて、伊勢の宮の神づかさなる人さへ、斯かるひがことはせしぞかし。かの佛菩薩のやうなる、誓ヒまた垂跡など云ふ事は、すべて神の御うへには、よしも無き事なるをや。又世に何がしの神の御歌ぞ、くれがしの社の御詠ぞなど云ふがあるは、多くは法師のともがらの、世の人を、おのが道に引入れむ料に、いつはり作れる物なり。さるによりさやうの歌は、神の道の意にはかなはず、皆佛意なるぞかし。すべてむかしより僧の、人をいざなふに、そらごとする事を、はばからぬは、かの釋迦と云ひし人の、方便と云ふ事にならひてなるべし。

新字:中昔よりこなた、ひたすら仏の道の意をもて、神の御事をも詠むは、かの本地垂跡の説にまどひて、神も本地はみな仏ぞと心得たるより、云ひならひて、伊勢の宮の神づかさなる人さへ、斯かるひがことはせしぞかし。かの仏菩薩のやうなる、誓ヒまた垂跡など云ふ事は、すべて神の御うへには、よしも無き事なるをや。又世に何がしの神の御歌ぞ、くれがしの社の御詠ぞなど云ふがあるは、多くは法師のともがらの、世の人を、おのが道に引入れむ料に、いつはり作れる物なり。さるによりさやうの歌は、神の道の意にはかなはず、皆仏意なるぞかし。すべてむかしより僧の、人をいざなふに、そらごとする事を、はばからぬは、かの釈迦と云ひし人の、方便と云ふ事にならひてなるべし。

書き下し

中昔よりこなた、ひたすら仏の道の意をもて、神の御事をも詠むは、かの本地垂跡の説にまどいて、神も本地はみな仏ぞと心得たるより、云いならいて、伊勢の宮の神づかさなる人さえ、斯かるひがことはせしぞかし。かの仏菩薩のようなる、誓いまた垂跡など云う事は、すべて神の御うえには、よしも無き事なるをや。また世に何がしの神の御歌ぞ、くれがしの社の御詠ぞなど云うがあるは、多くは法師のともがらの、世の人を、おのが道に引き入れむ料に、いつわり作れる物なり。さるによりさようの歌は、神の道の意にはかなわず、皆仏意なるぞかし。すべてむかしより僧の、人をいざなうに、そらごとする事を、はばからぬは、かの釈迦と云いし人の、方便と云う事にならいてなるべし。

現代語訳

中古からこのかた、ひたすら仏道の心で神の御事までも詠むのは、あの本地垂跡の説に惑って、神も本地はみな仏だと心得たことから言い慣わしたもので、伊勢の神宮の神職である人でさえ、こうした誤りをしたのである。あの仏・菩薩のような誓いや垂跡などということは、すべて神の御身の上にはまったく縁のないことである。また世に、何々の神の御歌だ、何某の社の御詠だなどというものがあるのは、多くは僧たちが世の人を自分の道に引き入れる材料にしようと、偽って作ったものである。だからそのような歌は神の道の心にかなわず、みな仏の心なのである。およそ昔から僧が人を誘うのに嘘をつくことをはばからないのは、あの釈迦という人の「方便」ということにならったのであろう。

解説

神祇歌の段の続きで、仏教的な神詠みの根にある本地垂跡説を批判する。本地垂跡説とは、日本の神々は仏・菩薩が衆生を救うために仮に姿を現したものだとする考えで、中世には広く信じられ、伊勢の神職でさえ神の「誓い」を詠んだ。宣長はさらに、何々の神の御歌と伝えられる歌の多くは、僧が人々を仏道に誘うために作った偽作だと言い、その根は釈迦の「方便」、つまり目的のためには仮の話も許すという考えにあると見る。宣長の仏教批判は手厳しく、今の目から見れば一方的なところもある。だが、権威ある者の名を借りた言葉が、誰かの布教や宣伝の道具として作られていないか疑う目は、情報の出どころを確かめるうえで今も有効である。

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