玉勝間 / 二の巻 神祇の歌
風雅集の神祇ノ部に、「もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりも何かくるしき、と云ふ歌有て、これは和泉式部熊野にまうでたりけるに、さはりにて、奉幣かなはざりけるに、「晴やらぬ身のうき雲のたな引て月のさはりとなるぞかなしき、と詠みてねたりける夜の夢に、告させ給ひけるとなんとあり。これいたく道の意にかなはず、佛の意なり。中むかしより、なべて世のならひとして、此和泉式部なども、法師の云ふ事をのみ常に聞なれて、佛意の心にそみつきたりしより、さる夢をも見たるにこそ有けめ、神はいかでか斯かる御心ならむ。塵にまじはるなど云ふことも、からぶみの老子と云ふに、和光同塵と云へることの有るをとりて云ひ出たるみだり事にこそあれ、さらに神の御うへに無き事なり。ゆめかうやうのひが事にまどひて、神をな穢し奉りそ。又同じ集同じ部に、度會ノ朝棟と云ふ人の歌に「かたそぎの千木は内外にかはれども誓はおなじいせの神風と有、此歌のみならず、すべて神に、誓〓と云ひ、あるは跡たれてなど云ふ事を詠むは、皆ひが事なり。
新字:風雅集の神祇ノ部に、「もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりも何かくるしき、と云ふ歌有て、これは和泉式部熊野にまうでたりけるに、さはりにて、奉幣かなはざりけるに、「晴やらぬ身のうき雲のたな引て月のさはりとなるぞかなしき、と詠みてねたりける夜の夢に、告させ給ひけるとなんとあり。これいたく道の意にかなはず、仏の意なり。中むかしより、なべて世のならひとして、此和泉式部なども、法師の云ふ事をのみ常に聞なれて、仏意の心にそみつきたりしより、さる夢をも見たるにこそ有けめ、神はいかでか斯かる御心ならむ。塵にまじはるなど云ふことも、からぶみの老子と云ふに、和光同塵と云へることの有るをとりて云ひ出たるみだり事にこそあれ、さらに神の御うへに無き事なり。ゆめかうやうのひが事にまどひて、神をな穢し奉りそ。又同じ集同じ部に、度会ノ朝棟と云ふ人の歌に「かたそぎの千木は内外にかはれども誓はおなじいせの神風と有、此歌のみならず、すべて神に、誓〓と云ひ、あるは跡たれてなど云ふ事を詠むは、皆ひが事なり。
書き下し
風雅集の神祇の部に、「もとよりもちりにまじわる神なれば月のさわりも何かくるしき、と云う歌有りて、これは和泉式部熊野にもうでたりけるに、さわりにて、奉幣かなわざりけるに、「晴れやらぬ身のうき雲のたな引きて月のさわりとなるぞかなしき、と詠みてねたりける夜の夢に、告げさせ給いけるとなんとあり。これいたく道の意にかなわず、仏の意なり。中むかしより、なべて世のならいとして、この和泉式部なども、法師の云う事をのみ常に聞きなれて、仏意の心にそみつきたりしより、さる夢をも見たるにこそ有りけめ、神はいかでか斯かる御心ならむ。塵にまじわるなど云うことも、からぶみの老子と云うに、和光同塵と云えることの有るをとりて云い出でたるみだり事にこそあれ、さらに神の御うえに無き事なり。ゆめこうようのひが事にまどいて、神をな穢し奉りそ。また同じ集同じ部に、度会の朝棟と云う人の歌に「かたそぎの千木は内外にかわれども誓はおなじいせの神風と有り、この歌のみならず、すべて神に、誓〓と云い、あるは跡たれてなど云う事を詠むは、皆ひが事なり。
現代語訳
『風雅集』の神祇の部に、「もとより塵にまじわる神なのだから、月のさわりも何の差し支えがあろうか」という歌があり、これは、和泉式部が熊野に詣でたところ、月のさわり(月経)のために奉幣がかなわなかったので、「晴れきらない我が身の憂い雲がたなびいて、月のさわりとなるのが悲しい」と詠んで寝た夜の夢に、神がお告げになった歌だという。これはひどく道の心にかなわず、仏の心である。中古から世の習いとして、この和泉式部なども、僧の言うことばかりを常に聞き慣れて、仏の心に染みついていたから、そんな夢も見たのであろう。神がどうしてそのようなお心であろうか。「塵にまじわる」などということも、中国の書の『老子』に「和光同塵」とあるのを取って言い出したでたらめであって、まったく神の御身の上にはないことである。決してこのような誤りに惑って、神を穢し申し上げてはならない。また同じ集の同じ部に、度会朝棟という人の歌に「かたそぎの千木は内宮と外宮とで違うけれども、誓いは同じ伊勢の神風である」とある。この歌だけでなく、すべて神について「誓い」と言い、あるいは「跡をたれて」などということを詠むのは、みな誤りである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 神祇の歌中昔よりこなた、ひたすら仏の道の意をもて、神の御事をも詠むは、かの本地垂跡の説にまどいて、神も本地はみな仏ぞと心得たるより、云いならいて、伊勢の宮の神づかさなる人さえ、斯かるひがことはせしぞかし。かの仏菩薩のようなる、誓いまた垂跡など云う事は、すべて神の御うえには、よしも無き事なるをや。また世に何がしの神の御歌ぞ、くれがしの社の御詠ぞなど云うがあるは、多くは法師のともがらの、世の人を、おのが道に引き入れむ料に、いつわり作れる物なり。さるによりさようの歌は、神の道の意にはかなわず、皆仏意なるぞかし。すべてむかしより僧の、人をいざなうに、そらごとする事を、はばからぬは、かの釈迦と云いし人の、方便と云う事にならいてなるべし。
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『玉勝間』二の巻 風雅集の事風雅集に、後宇多の天皇の大御歌、「天つ神国つやしろをいわいてぞわがあし原の国はおさまる。これぞ道の意にはよくかなえる大御歌なりける。人の国のごと、くさぐさこちたきわざはせさせ給わざりしかども、ただ神をいつきまつり給いて、天の下のいとよく治まりつるは、神の御国のすぐれたるにて、上つ代はまことに然かぞ有りしか、同集賀の部に、花山の院の前の内大臣、「我君のやまと島根を出ずる日はもろこしまでもあおがざらめや。これも道の意にかなえる歌なり。
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『玉勝間』三の巻 選子内親王の御歌選子内親王、賀茂のいつきと聞こえける時に、西に向いて詠み給える、「思えども忌むとて云わぬ事なればそなたにむきて音をのみぞ泣く、詞花集に入れり。すべて伊勢賀茂の斎王の宮にては、いみしく仏を忌みて、そのすじの事は、詞に云うをだに、いましめられたる、御さだめなりき。然るに御国人は、昔より、たかきも賤しきも、かしこきも愚かなるも、おしなべて、仏の教を信ぜぬ人は、世に一人も無かりければ、いつきにい給うをば、罪深き事にして、歎き給えるならいなりき。されど神につかうまつり給う御心の、まめやかにおわせんには、その忌み嫌い給うすじをば、かけても思しよるべきわざならぬを、西に向いて、ねになき給うばかりなりしは、云わむかたなきまが事にぞ有りける。さては御かたちのかぎり、皇神のいつきにてはおわしまして、御心は、もはら極楽の阿弥陀の斎にこそおわしけれ。さるにても御心の内にこそは、おのずからさおぼす事も有らんにても、おおやけの重きいましめなれば、歌などに詠み顕わし給うべきに有らず、又たとい詠み出で給えりとも必ず人に語りなどはし給うまじきわざなるを、御はじともおぼさずや有りけん。
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『玉勝間』三の巻 神の御ふみをとける世世のさまさていよいよ心さかしく成りもて行くままに、近き世となりては、又ようように、かの仏ごころをまじうるが、ひがことなる事をさとりて、それをばことごとくのぞきて説く事となれり。然れどもそれは、まことに古の意をさとりて然るにはあらず、唯だ儒意のすすめるから、厭えるものなり。さる故に、近き世に、神の道とて説く趣は、ひたすら儒にして、さらに神の道にかなわず。このともがら、かの仏に流れたる事のひがことをば知りながら、みずから又儒にながるる事を、えさとらざるは、いかにぞや。かくして又近き世には、然か儒による事の悪ろきをも、やや知りて、つとめて是れをのぞかんとする者も、これかれとほのめくめれども、其れはたいまだ清く漢意をはなるる事あたわで、天理陰陽など云う説をば、猶まことと心得、ともすれば、例のさかしらの立ちいでては、高天の原を帝都の事とし、天照大御神を、天つ日にあらずとし、海神宮を、一つの島なりとするたぐい、すべてかように、おのが私の心をもて、さまざまに説き曲ぐる事をえまぬかれざるは、猶みな漢意なるを、みずからさも覚えざるは、さる癖の、世の人の心の底に、しみつきたるならいぞかし。
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『玉勝間』五の巻 いせ物がたりを読みて云はまほしき事ども一つ二つかえし「下ひもの云云、又かえし「恋しとは云云、この又のかえし、かなえりとも聞えず。真名本には、この二首は、上とは別条にて、「恋しとは云云、かえし「下ひもの云云と有り、よろし。今はさること似げ無く云云、誰とも無くて、斯く云えること聞えず。真名本には、なま翁の今は云云と有り、よろし。されど歌の上に、中将なりける翁と有るは悪ろし、かの翁とこそ云うべけれ。又は上を、中将なりける翁今はさること云云と云いて、歌の所には、何とも云わでも有りなん。大鷹のたかがいを、真名本に、大方之鷹飼と有るは、ひがことなり。西宮記にも、鷹飼王卿、大鷹飼者、地摺の猟衣、綺の袴、玉帯を著く、鷂飼者云云と有る、ここによくかなえるをや。昔みかど住吉に云云、この条すべて詞足らず。他条の例に似ず。「我見てもの歌も、誰が歌とも、わきまえがたく、大神の現形も俄なり。他条の例にならいて云わば、昔男、みかどの住吉に行幸し給いける、御供につかうまつりて詠める、「我見ても云云、と詠めりければ、大神云云、などこそ有るべけれ。「むつまじと云云の歌は、何事ぞや。二の句を、君は知らずやとすれば、大かた聞ゆるようには有れど、猶いとつたなし。
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『玉勝間』二の巻 古今集月の歌の事月をば、秋の題とする事なれども、古今集には、月の歌は、雑の部に入れり。秋の部にはただ五首入れて、そは秋と云う事ある歌、また雁を詠み入れたるなどのみなり。
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