玉勝間 / 二の巻 又
世に源平藤橘とならべて、四姓と云ふ。源平藤原は、中昔より殊に廣き姓なれば、さも云ひつべきを、橘はしも、かの三うぢにくらぶれば、こよなくせばきを、此かぞへのうちに入ぬるは、いかなるよしにか有らむ。思ふに嵯峨ノ天皇の御代に、皇后の御ゆかりに、尊みそめたりしならひにやあらむ、かくて此四姓の事は、もろこしぶみにさへ云へる。そは昔ここの人の物せしが、語りつらむを聞て、しるしたッなるを、かしこまで知られたる事と、世にゆかしきわざにぞ思ふめる。すべて何事にまれ、ここの事の、かしこの書に見えたるをば、いみしき事に思ふなるは、いとおろかなる事なり。すべてかの國の書には、その國國の人の、語れる事を、きけるままにしるせれば、なにの珍らしくいみしき事かはあらむ。
新字:世に源平藤橘とならべて、四姓と云ふ。源平藤原は、中昔より殊に広き姓なれば、さも云ひつべきを、橘はしも、かの三うぢにくらぶれば、こよなくせばきを、此かぞへのうちに入ぬるは、いかなるよしにか有らむ。思ふに嵯峨ノ天皇の御代に、皇后の御ゆかりに、尊みそめたりしならひにやあらむ、かくて此四姓の事は、もろこしぶみにさへ云へる。そは昔ここの人の物せしが、語りつらむを聞て、しるしたッなるを、かしこまで知られたる事と、世にゆかしきわざにぞ思ふめる。すべて何事にまれ、ここの事の、かしこの書に見えたるをば、いみしき事に思ふなるは、いとおろかなる事なり。すべてかの国の書には、その国国の人の、語れる事を、きけるままにしるせれば、なにの珍らしくいみしき事かはあらむ。
書き下し
世に源平藤橘とならべて、四姓と云う。源平藤原は、中昔より殊に広き姓なれば、さも云いつべきを、橘はしも、かの三うじにくらぶれば、こよなくせばきを、この数えのうちに入りぬるは、いかなるよしにか有らむ。思うに嵯峨の天皇の御代に、皇后の御ゆかりに、尊みそめたりしならいにやあらむ、かくてこの四姓の事は、もろこしぶみにさえ云える。そは昔ここの人の物せしが、語りつらむを聞きて、しるしたんなるを、かしこまで知られたる事と、世にゆかしきわざにぞ思うめる。すべて何事にまれ、ここの事の、かしこの書に見えたるをば、いみしき事に思うなるは、いとおろかなる事なり。すべてかの国の書には、その国国の人の、語れる事を、ききけるままにしるせれば、なにの珍らしくいみしき事かはあらむ。
現代語訳
世に源・平・藤・橘と並べて四姓という。源・平・藤原は中古から特に広まった姓なので、そう言うのももっともだが、橘はあの三氏に比べるとずっと狭いのに、この数のうちに入っているのは、どういうわけであろうか。思うに、嵯峨天皇の御代に、皇后(橘嘉智子)のゆかりで尊ばれはじめた習わしであろうか。さてこの四姓のことは中国の書物にまで書かれている。それは昔、この国の人が彼の地に行って語ったのを聞いて記したものであろうが、あちらまで知られていたことだと、世間ではありがたいことのように思っているようだ。だいたい何事であれ、この国の事が彼の国の書に見えるのを大したことのように思うのは、まことに愚かなことである。およそ彼の国の書には、あちこちの国の人が語ったことを、聞いたままに記しているのだから、何の珍しく大したことがあろうか。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 姓氏の事またひとつには、近き世の人は、古のもろもろの姓をば、知る事無くして、姓はただ源平藤橘などのみなるがごと心得たるから、おのが好みてあらたにつくも、皆これらのうちなるが故に、古のもろもろの姓はきこえず、いよいよ源平藤は多くなりきぬるなり。また古の名高くすぐれたる人をしたいては、その子孫ぞと云いなして、学問するものは、菅原大江などに成り、武士は多く源に成るたぐいあり。すべて近き世は、よろしき程の人人も、ただ苗字をなんむねとはして、姓はかえりて、おもてにはたたざるならいなる故に、おのが心にまかせて物するなり。さてまた近き年ごろ、万葉ぶりの歌を詠み、古学をする輩は、また古き姓をおもしろく思いて、世の人の聞きもならわぬ、ふるめかしきを、あらたにつきてなのる者はた多かるは、かの漢学者の、からめかして、苗字をきりたちて、一字になすと同じたぐいにて、いとうるさく、その人の心のおさなさの、おしはからるるわざぞかし。古をしたうとならば、古のさだめを守りて、殊にさように、姓などをみだりにはすまじきわざなるに、かの禍津日前の探湯をもおそれざなるは、まことに古を好むとは云わるべしやは。
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『玉勝間』二の巻 姓氏の事今の世には、姓の知られざる人のみぞ多かる。さるはいかなるしず山がつと云えども、みな古の人の末にては有るなれば、姓の無きはあらざんなる事なるを、中むかしよりして、いわゆる苗字をのみよびならえるままに、下下なる者などは、ことごとしく姓と苗字とを並べてなのるべきにも有らざるから、おのずから姓はうずもれ行きて、世世をへては、みずからだに知らずなれるなり。さて後になりのぼりて、人めかしく成れる者などは、姓の無きを、物げ無くあかぬ事に思いては、あるいは藤原、あるいは源平など、おのが好めるを、みだりにつく事いと多し。すべて足利の末のみだれ世よりして、天の下の姓氏ただしからず、皆いとみだりがわしくぞなれりける。その中に、近き世の人のなのる姓は、十に九つまでは、源藤原平なり。そは古のもろもろの氏氏は絶えて、この三氏のかぎり多くのこれるにやと思えば、さには有らず。中昔よりして、この三うじの人のみ、つかさ位高きは有りて、他のもろもろの氏人どもは、皆すぎすぎにいやしくのみなりくだれるから、その人は有りながら、その姓はおのずからかくれ行きて、おさおさ知る人も無く、絶えたるがごとなれるなり。
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『玉勝間』二の巻 苗字藤原源などは、世に同じ氏の人、数しらず多かれば、その内を苗字して分かざれば、いとまぎらわしきままに、つねにその苗字をのみよびならいて、むねと成れる、これおのずから必ずしかるべき勢いにして、今はこの苗字ぞ、姓の如くなれりければ、姓の知られざらん人などは、苗字を正しく守るべきわざなりかし。さてこの苗字の苗字は、よしなき事なり。こはもと名字なりけむを、然書きては、名またあざなにまぎるる故に、書きかえたる物なるべし。名字と書かむも、当たれるにはあらざれども、中昔には、名をもまた姓と名とをつらねても、広く常に名字と云いつれば、姓の小分をも、同じく然云いならえりしなり。また今の人、おのが子の事をも、父の事をも、同苗と云う、これももと同名にて、同姓のよしなり。
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『玉勝間』二の巻 姓氏の事そもそも姓は先祖より伝わる物にこそあれ、上より賜わらざらむ限りは、心に任せて、しかわたくしにすべき物にはあらず。まことにその姓にはあらずとも、中ごろの先祖、もしはおおじ父の世より、なのり来てあらんは、猶さても有るべきを、おのがあらたに物せむ事は、いといと有るまじきわざになむ。姓知られざらんには、ただ苗字をなのりてあらむに、なでう事かはあらん。すべて古を好まむからに、よろずをあながちに古めかさむとかまうるは、なかなかに古の心には有らざるものをや。
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『神皇正統記』巻四 第六十二代 村上天皇源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫に姓を給て人臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓を給る。桓武の御子葛原親王の男、高棟平の姓を給る。平城の御子阿保親王の男、行平・業平等在原の姓を給ることも此後のことなれど、これはたまたまの儀也。弘仁以後代々の御後はみな源姓を給しなり。親王の宣旨を蒙る人は才不才によらず、国々に封戸など立られて、世のつひえなりしかば、人臣につらね宦学して朝要にかなひ、器にしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人は直に四位に叙す。当君のは三位なるべしと云。かくて代々のあひだ姓を給し人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓を給人二十一人。この中、大臣にのぼる人、常の左大臣兼大将、信の左大臣、融の左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、多の右大臣、光の右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。
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『玉勝間』十三の巻 臣の王を娶る事記略に、延暦十二年九月丙戌の詔に、見任の大臣、良家の子孫、三世以下を娶るを許す、但し藤原氏は、累代相承けて、摂政絶えず、此を以てこれを論ずれば、等しきに因るべからず、殊に二世以下を娶るを聴すべしと見えたり。そもそも古は、皇女はさらにも申さず、すべて臣の、王の女を娶ることは、ゆるされぬ事にて、さる事かつて無かりしを、継嗣令に、臣五世の王を娶るは聴すとあるは、令の時、始めての御制にや有りけむ。そのかみ万の事、さしも漢風にうつされしかども、これらはさすがに、人の情の安からざる事なれば、延暦の頃になりてすら、なお上の件の如くなりけらし。令のかの同じつづきに、王は親王を娶り、ただ五世の王は、親王を娶るを得ずとも見えて、諸王は、四世までも、皇女をも娶りしを、臣は、そのかみわずかに、五世の女王を娶ることをゆるされしを以て、王と臣と、すじの尊き卑しきけじめ、厳なりしことを知るべし。夫婦のむすびをなすことも、尊き卑しきけじめ、かばかり正しかりしを、そののち何事もみな、漸に漢風にうつりはてて、ついに今の如くには成りぬるなり。世の人ただ、同姓娶らずなど云う、漢風の事をのみ、思い云いて、皇国の古に、かばかり尊き卑しきけじめを分けし事をば、知らざめる故に、今いささかおどろかすなり。
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