玉勝間 / 二の巻 御蔭山また桂葵をとる山の事
同記に、寛仁二年十一月廿五日、被奉寄賀茂上下郷郷事、可定申也、栗栖野小野二郷、上下社司各申、但昨日下社司久〓進解文、可尋舊記、皇大神初天降給小野郷大原御蔭山也云云、亦栗栖野、可爲下社之山、有採桂葵山之由、先年給官符、仍件小野并栗栖野郷、可爲下社領者。
新字:同記に、寛仁二年十一月廿五日、被奉寄賀茂上下郷郷事、可定申也、栗栖野小野二郷、上下社司各申、但昨日下社司久〓進解文、可尋旧記、皇大神初天降給小野郷大原御蔭山也云云、亦栗栖野、可為下社之山、有採桂葵山之由、先年給官符、仍件小野并栗栖野郷、可為下社領者。
書き下し
同記に、寛仁二年十一月廿五日、賀茂上下に郷郷を寄せ奉らるる事、定め申すべきなり、栗栖野・小野の二郷、上下の社司各申す、但し昨日下社の司久〓解文を進る、旧記を尋ぬべし、皇大神の初めて天降り給うは小野郷大原の御蔭山なり云云、また栗栖野は、下社の山たるべし、桂葵を採る山有る由、先年官符を給う、仍りて件の小野并びに栗栖野郷は、下社の領たるべし者(てえり)。
現代語訳
同じ日記に、寛仁二年(1018)十一月二十五日、「賀茂の上下両社に郷々を寄進される事を評議して申し上げることになった。栗栖野・小野の二郷については、上下の社司がそれぞれ申し出ている。ただし昨日、下社の社司久〓が解文(上申書)を差し出した。旧い記録を調べるべきである。皇大神が初めて天降られたのは、小野郷大原の御蔭山であるという。また栗栖野は下社の山とすべきである。桂と葵を採る山がある由について、先年官符を賜っている。よってこの小野郷と栗栖野郷は下社の領とすべきである」とある。
解説
関連する章句
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『玉勝間』二の巻 賀茂行幸の時の宣命同記に、寛仁元年十一月廿五日、賀茂行幸の時の宣命。天皇が詔旨と、掛けまくも畏き賀茂皇大神の広前に、恐み恐みも申し賜えと申さく、年来の間、祈り願わしめ給う事在り、然も験〓冥助相通いて、其の験昭然なり、恐む由を報賽せしめ給わんとなも所念し行して〓、故に是を以て吉日良辰を撰び定めて、金銀の御幣、錦の蓋・餝劔・平劔・唐組・平〓、御弓・御箭・御鉾・御鏡、并びに種種の神宝、音楽・走馬・東遊等を相並べて、唱え進りて行幸し給う、また前年に愛宕郡一郡ながら寄せ奉るべき由を祈り申さしめ給いき、而るに件の郡内に在る所、或いは帝王の城都、或いは明神の領地、是れ万代相伝の処なり、曾て一人自由の地に非ず、仍りて南は皇城の北の大路の同じき末を限りて、東は郡界に至るまで、西は大宮の東の大路の同じき末を限りて、北は郡界に至るまで、寄せ奉り給う、但し此の内に凌室・蔵氷の邑有り、是れまた百王の職事限り有りて一時に之を改易し致し難し、縦い神郡の内に在りとも此の一邑を除くべし、抑も上下の御社、件の郡を平均に分かち奉り給う、然れども田圃〓〓の数、忽ちに以て決し難し、追って後日を以て、各界い奉るべし、皇大神此の状を、平らけく安らけく聞こし食して、いよいよ感応を垂れて、天皇が朝廷を、宝位動き無く、常盤堅盤に、夜の守り日の守りに、護り幸え奉り給い、四海〓平らかに、万民安楽に、水旱飢疫の難を、未兆に払い退け、農圃蚕養の業を、事毎に豊かに登らしめ、唐堯と徳を同じくし、漢文に名を比べて、叡慮の尅念違い無く、必ず然も護り恵み〓奉り給えと、恐み恐みも申し賜わくと申す、辞別きて申し賜わく〓〓、后闡の月長く明らかに、母儀の風いよいよ芳しくて、皇大后も同じく共に参り給えり、冥助空しからず、感応暗に至りて、万歳千秋まで、夜の守り日の守りに護り幸え奉り給えと、恐み恐みも申し賜わくと申す、寛仁元年十一月。
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『玉勝間』十の巻 賀茂行幸社司勧賞同じ記に云う、嘉保二年四月十五日、今日賀茂行幸なり、云々。裏書に云う、賀茂行幸、上下社司の勧賞、上社司(九人)神主従五位下賀茂県主成継、(外甥藤原政季に譲る)禰宜従五位下同安成、(外甥源保に譲る)祝従五位下同成季、(舅父藤原行季に譲る)権禰宜従五位下同重助、(漆国守に譲る)権祝従五位下同成長、(舅父惟宗親持に譲る)片岡禰宜従五位下同成定、(外舅紀資宗に譲る)同祝従五位下同成頼、(藤原為包に譲る)貴布禰禰宜従五位下同成忠、(平正経に譲る)同祝従五位下同成氏、(藤原宗政に譲る)下社司(五人)、禰宜正五位下鴨県主惟季、(自ら四位に叙す)祝従五位下同伊房、(息男伊俊に譲る)権禰宜従五位下同職通、(藤原実俊に譲る)川合禰宜従五位下同経貞、同祝従五位下同惟輔、(伴季兼に譲る)已上十四人、倍して一階を加う、下社の権禰宜従五位下季長、重服に依りて勧賞に漏る、(追って代官伊長に譲る、社司の奏状有り)蔵人少納言後日に云う、代官惟長爵に叙す、また季長勧賞有るべき由、追って宣旨有り、てえり。
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『玉勝間』十の巻 賀茂ノ社の神主祢宜権祢宜台記に云う、久寿元年六月十五日、頭光頼朝臣来たりて曰く、賀茂の禰宜重忠、神主に転じ、権禰宜家平、禰宜に転じ、貴布禰の禰宜助平、権禰宜に転じ、氏人久〓、貴布禰の禰宜に補す、てえりと見えたり。神主と禰宜と有りしなり。貴布禰の禰宜の権禰宜に転ずるは、賀茂の権禰宜に成れりしなり。
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『玉勝間』八の巻 祭に臨みて神主を定むる事左経記に、寛仁元年十一月三日丁酉、天晴る、祭事を行わんが為に、梅宮に参る云云、但し氏人等遅参す云云、仍て大膳少進従五位下上野朝臣広遠を以て、神主と為す云云(先例は氏人を以て神主と為す、而るに遅参す、仍て定め有りて、広遠を以て神主と為す)と有るを見れば、古は、祭に臨みて、神主と云うものを、定められたる事も有しなり。
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『玉勝間』八の巻 榊ノ枝松ノ枝を文台とせらるる事明月記に、建永二年三月五日、賀茂の歌合、今日題を給う、七日、雨気有るに依りて、御幸念がる云云、次に舞殿に入御す、御前に円座を敷く、大納言召しに依りて御前に候う、次に歌人を召す、有家歌合を取りて、参上す、敦経榊の枝を持参し、御前に置きて文台と為す、枝の本を御社の方に向け、木の葉の面を以て上と為すべき由仰せ有り、歌合を其の上に置く、云云、上の御社に幸す、次第前の如し、橋殿を以て御所と為す、予召しに依りて歌合を取りて参上す、敦経松の枝を持参し、文台と為すこと前の如し、読み上げ了りて各退下す。
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『玉勝間』一の巻 中臣寿詞大嘗会の中臣寿詞と云う文あり。宇治の左大臣頼長公の台記の、康治元年の大嘗会の別記に載せられたり。その文、現御神と大八島国知ろしめす大倭根子天皇が御前に、天つ神の寿詞を称辞定め奉らくと申す。高天原に神留まり坐す皇親神漏岐・神漏美の命を持ちて、八百万の神等を集え賜いて、皇孫尊は高天原に事始めて、豊葦原の瑞穂の国を安国と平らけく知ろしめして、天つ日嗣の天つ高御座に御坐して、天つ御膳を長御膳の遠御膳と、千秋の五百秋に、瑞穂を平らけく安らけくゆにわに知ろしめせと事依さし奉りて、天降り坐しし後に、中臣の遠つ祖天児屋根命、皇御孫尊の御前に仕え奉りて、天忍雲根神を天の二上に上せ奉りて、神漏岐・神漏美命の前に受け給わり申すに、皇御孫尊の御膳つ水を、うつし国の水に天つ水を加えて奉らむと申せと、事教え給いしに依りて、天忍雲根神、天の浮雲に乗りて、神漏岐・神漏美命の前に申せば、天の玉櫛を事依さし奉りて、この玉櫛を刺し立てて、夕日より朝日の照るに至るまで、天つ詔戸の太詔刀言を以ちて告れ。かく告らば、まちは弱韮にゆつ五百篁生い出でむ。その下より天の八井出でむ。これを持ちて天つ水と聞こしめせと事依さし奉りき。かく奉りし任々に聞こしめすゆにわの瑞穂を、四国の卜部等、太兆に卜事を持ちて仕え奉る、悠紀に近江国野洲、主基に丹波国氷上を斎い定めて、
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