玉勝間 / 二の巻 賀茂行幸の時の宣命
同記に、寬仁元年十一月廿五日、賀茂行幸時の宣命。天皇我詔旨止、掛畏岐賀茂皇大神乃廣前〓、恐見恐見毛申賜倍止申久、年來乃間、令祈願給〓事在り、然毛驗〓冥助相通天、其驗昭然奈り、恐由乎報賽之女給者本止所念行天奈〓、故是以吉日良辰を撰定天、金銀乃御幣、錦蓋餝劔平劔唐組平〓、御弓御箭御鉾御鏡、井種種神寶、音樂走馬東遊等を相並而、唱進利天行幸給布、又前年仁愛宕郡一郡奈加ら可奉寄之由を令祈申給信利、而件郡內爾所在、或帝王城都、或明神領地、是萬代相傳之處奈利、曾非一人自由之地、仍南者皇城乃北乃大路乃同末を限天、東郡界至未天、西〓大宮乃東大路ノ同末チ限天、北郡界仁至本天、奉寄給布、但此內有凌室藏氷之邑り、是又百王之職事有限難致一時改易之、縱在神郡内止毛可除此一邑之、抑上下乃御社、件郡平均奉分給之、然而田圃〓〓數、忽以難决シ、追以後日天、各可奉界之、皇大神此狀を、平久安久聞食天、彌垂感應天、天皇朝庭を、寳位無動久、常盤堅盤し、夜守日守仁、護幸倍奉給比、四海〓平、萬民安樂之、水旱飢疫乃難を、未兆拂退、農圃蠶養之業を、毎事豐登之、唐堯同德之、漢文比名天、叡慮乃尅念無違久、必然護惠〓奉給倍止、恐見恐見毛申賜波久止申、辭別天申賜〓〓、后闡之月長明に、母儀之風彌芳之天、皇大后毛同久共參給ヘリ、冥助不空須、感應暗至天、萬歲千秋未天仁、夜守日守爾護幸倍奉給へと、恐見恐見毛申賜波久と申、寬仁元年十一月。
新字:同記に、寛仁元年十一月廿五日、賀茂行幸時の宣命。天皇我詔旨止、掛畏岐賀茂皇大神乃広前〓、恐見恐見毛申賜倍止申久、年来乃間、令祈願給〓事在り、然毛験〓冥助相通天、其験昭然奈り、恐由乎報賽之女給者本止所念行天奈〓、故是以吉日良辰を撰定天、金銀乃御幣、錦蓋餝剣平剣唐組平〓、御弓御箭御鉾御鏡、井種種神宝、音楽走馬東遊等を相並而、唱進利天行幸給布、又前年仁愛宕郡一郡奈加ら可奉寄之由を令祈申給信利、而件郡内爾所在、或帝王城都、或明神領地、是万代相伝之処奈利、曽非一人自由之地、仍南者皇城乃北乃大路乃同末を限天、東郡界至未天、西〓大宮乃東大路ノ同末チ限天、北郡界仁至本天、奉寄給布、但此内有凌室蔵氷之邑り、是又百王之職事有限難致一時改易之、縦在神郡内止毛可除此一邑之、抑上下乃御社、件郡平均奉分給之、然而田圃〓〓数、忽以難決シ、追以後日天、各可奉界之、皇大神此状を、平久安久聞食天、弥垂感応天、天皇朝庭を、宝位無動久、常盤堅盤し、夜守日守仁、護幸倍奉給比、四海〓平、万民安楽之、水旱飢疫乃難を、未兆払退、農圃蠶養之業を、毎事豊登之、唐堯同徳之、漢文比名天、叡慮乃尅念無違久、必然護恵〓奉給倍止、恐見恐見毛申賜波久止申、辞別天申賜〓〓、后闡之月長明に、母儀之風弥芳之天、皇大后毛同久共参給ヘリ、冥助不空須、感応暗至天、万歳千秋未天仁、夜守日守爾護幸倍奉給へと、恐見恐見毛申賜波久と申、寛仁元年十一月。
書き下し
同記に、寛仁元年十一月廿五日、賀茂行幸の時の宣命。天皇が詔旨と、掛けまくも畏き賀茂皇大神の広前に、恐み恐みも申し賜えと申さく、年来の間、祈り願わしめ給う事在り、然も験〓冥助相通いて、其の験昭然なり、恐む由を報賽せしめ給わんとなも所念し行して〓、故に是を以て吉日良辰を撰び定めて、金銀の御幣、錦の蓋・餝劔・平劔・唐組・平〓、御弓・御箭・御鉾・御鏡、并びに種種の神宝、音楽・走馬・東遊等を相並べて、唱え進りて行幸し給う、また前年に愛宕郡一郡ながら寄せ奉るべき由を祈り申さしめ給いき、而るに件の郡内に在る所、或いは帝王の城都、或いは明神の領地、是れ万代相伝の処なり、曾て一人自由の地に非ず、仍りて南は皇城の北の大路の同じき末を限りて、東は郡界に至るまで、西は大宮の東の大路の同じき末を限りて、北は郡界に至るまで、寄せ奉り給う、但し此の内に凌室・蔵氷の邑有り、是れまた百王の職事限り有りて一時に之を改易し致し難し、縦い神郡の内に在りとも此の一邑を除くべし、抑も上下の御社、件の郡を平均に分かち奉り給う、然れども田圃〓〓の数、忽ちに以て決し難し、追って後日を以て、各界い奉るべし、皇大神此の状を、平らけく安らけく聞こし食して、いよいよ感応を垂れて、天皇が朝廷を、宝位動き無く、常盤堅盤に、夜の守り日の守りに、護り幸え奉り給い、四海〓平らかに、万民安楽に、水旱飢疫の難を、未兆に払い退け、農圃蚕養の業を、事毎に豊かに登らしめ、唐堯と徳を同じくし、漢文に名を比べて、叡慮の尅念違い無く、必ず然も護り恵み〓奉り給えと、恐み恐みも申し賜わくと申す、辞別きて申し賜わく〓〓、后闡の月長く明らかに、母儀の風いよいよ芳しくて、皇大后も同じく共に参り給えり、冥助空しからず、感応暗に至りて、万歳千秋まで、夜の守り日の守りに護り幸え奉り給えと、恐み恐みも申し賜わくと申す、寛仁元年十一月。
現代語訳
同じ日記に、寛仁元年(1017)十一月二十五日、賀茂社へ行幸した時の宣命がある。「天皇の詔旨として、口にするのも畏れ多い賀茂の皇大神の御前に、恐れ謹んで申し上げよと申すことには、この年ごろ祈り願わせられた事がある。しかもその験は神の御助けと通い合って、はっきりと現れた。畏れ多いことに、そのお礼を申し上げようとお思いになって、吉日良辰を選び定め、金銀の御幣、錦の蓋、飾り剣・平剣・唐組・平〓、御弓・御矢・御鉾・御鏡、ならびに種々の神宝、音楽・走馬・東遊などを取りそろえ、唱え奉って行幸なさる。また前年、愛宕郡を一郡まるごと寄進申し上げようと祈り申された。ところがこの郡の内には、あるいは帝王の都城があり、あるいは明神の領地があって、これは万代にわたって伝わる所であり、決して一人が自由にできる地ではない。そこで、南は大内裏の北の大路をそのまま延ばした線を限りとして東は郡の境まで、西は大宮の東の大路をそのまま延ばした線を限りとして北は郡の境まで、寄進申し上げる。ただしこの内に氷室と氷を蔵める村がある。これもまた代々の天皇の職務として定まったもので、一度に改め変えることは難しいので、たとえ神郡の内にあっても、この一村は除くべきである。そもそも上下の御社には、この郡を等しく分けて奉る。しかし田畑の〓〓の数はすぐには決めがたいので、後日あらためて、それぞれの境を定め奉る。皇大神はこの趣を平らかに安らかにお聞き入れになって、いよいよ感応を垂れ、天皇の朝廷を、御位の揺らぐことなく、常盤堅盤に、夜も昼も守り幸いくださり、四海を平らかに、万民を安楽にし、水害・旱魃・飢饉・疫病の難を兆しのうちに払いのけ、農耕と養蚕の業をことごとく豊かに実らせ、唐堯と徳を同じくし、漢の文帝と名を並べさせ、天皇の深いお祈りのとおりに、必ず守り恵んでくださいと、恐れ謹んで申し上げると申す。言葉を改めて申し上げることには、皇后の御位の月は長く明らかに、母としての徳の風はいよいよかぐわしく、皇太后も同じく共に参られた。神の御助けは空しからず、感応はひそかに届いて、万年千年の後まで、夜も昼も守り幸いくださいと、恐れ謹んで申し上げると申す。寛仁元年十一月」。
解説
関連する章句
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『玉勝間』十の巻 賀茂行幸社司勧賞同じ記に云う、嘉保二年四月十五日、今日賀茂行幸なり、云々。裏書に云う、賀茂行幸、上下社司の勧賞、上社司(九人)神主従五位下賀茂県主成継、(外甥藤原政季に譲る)禰宜従五位下同安成、(外甥源保に譲る)祝従五位下同成季、(舅父藤原行季に譲る)権禰宜従五位下同重助、(漆国守に譲る)権祝従五位下同成長、(舅父惟宗親持に譲る)片岡禰宜従五位下同成定、(外舅紀資宗に譲る)同祝従五位下同成頼、(藤原為包に譲る)貴布禰禰宜従五位下同成忠、(平正経に譲る)同祝従五位下同成氏、(藤原宗政に譲る)下社司(五人)、禰宜正五位下鴨県主惟季、(自ら四位に叙す)祝従五位下同伊房、(息男伊俊に譲る)権禰宜従五位下同職通、(藤原実俊に譲る)川合禰宜従五位下同経貞、同祝従五位下同惟輔、(伴季兼に譲る)已上十四人、倍して一階を加う、下社の権禰宜従五位下季長、重服に依りて勧賞に漏る、(追って代官伊長に譲る、社司の奏状有り)蔵人少納言後日に云う、代官惟長爵に叙す、また季長勧賞有るべき由、追って宣旨有り、てえり。
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『玉勝間』二の巻 天皇御元服のよしを山陵に告給ふ宣命同記に、天皇が詔旨と、掛けまくも畏き其の山陵に〓申し賜えと申さく、公卿議り奏さく、明年は、天皇御歳を加え給い漸々、冠の年近くなり給うべし、冠は成人の始めにして、盛礼の嘉事なり、来る正月の吉日良辰に、元服を加え奉りて、人望に叶うべしと奏せり、掛けまくも畏き山陵の広き助けに依りて、平らけく安らけく果たし行わしめ給うべし、故に是を以て此の状を、官位姓名を差し使わして、恐み恐みも申し賜わくと奏す。寛仁元年十二月十九日。
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『玉勝間』二の巻 御即位後奉幣諸神祝詞小右記の、長和五年のところに云わく、御即位の後、天下の諸神に奉幣する祝詞。天皇が詔旨と、皇神等の広前に、称辞言え奉り申し給わく、高天原に神留まり坐す、皇親神漏伎神漏美の命以ちて、事寄さし給える、豊葦原の瑞穂の国の、天つ日嗣の高御座の次次、去る四月廿八日より食国天下の政を聞こし食すに依りて、その状を申し給うと、散位正六位上大中臣朝臣高邦を、差し使わして、礼代の幣帛を捧げ持たしめ奉り給う、天皇が御命を、申し給わくと申す。今案ずるに、件の文は祝詞なり、宣命に非ず、とあり。称辞言奉申給は、言の字は竟の誤りなるべし。言の字あまりて、竟と云うことたらざればなり。また申と云う言もあまれり、奉申かとも思えど、それも古には例なき事なり。さてまた次次も聞こえず、次隨隨など有りけむが、字の落ちたるなるべし。四月廿八日は、正月廿九日の誤りなり。これらは、善本には然ぞあるべき。そもそも祝詞宣命などの文、中むかしよりこなた、つぎつぎにつたなく成りて、大かた語のととのわで、ことわり聞こえがたき事もおおかるを、こまかにさだする人も無きは、古意にうとく、古言を知らざるが故なり。これらは詞にあやをなせる物にて、古のは皆いとめでたかりしものを、かくのみなおざりに成り行くがうれたさに、今ことのついでに、いささかおどろかし置くなり。
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『玉勝間』二の巻 御蔭山また桂葵をとる山の事同記に、寛仁二年十一月廿五日、賀茂上下に郷郷を寄せ奉らるる事、定め申すべきなり、栗栖野・小野の二郷、上下の社司各申す、但し昨日下社の司久〓解文を進る、旧記を尋ぬべし、皇大神の初めて天降り給うは小野郷大原の御蔭山なり云云、また栗栖野は、下社の山たるべし、桂葵を採る山有る由、先年官符を給う、仍りて件の小野并びに栗栖野郷は、下社の領たるべし者(てえり)。
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『玉勝間』二の巻 御即位後奉幣諸神祝詞同じ記のつづきにまた云わく、天慶九年四月十五日の外記日記に云う、天皇即位す、仍りて五畿内七道諸国の天神地祇に幣帛を奉らんが為に、五畿内は諸司の物を以て宛て用い、諸国は当の正税を以て之に宛て用う、使は道毎に神祇の中臣斎部等を差す、(各駅鈴一口を給う、但し畿内の使には給わず、)また五畿七道諸国の諸神に奉幣する日、廃務の有無の事、天禄元年三月廿日辛酉、終日雨降る、上卿参らず、仍りて政無きなり、今日天皇御即位の後、先例に依りて五畿七道諸国の諸名神に奉幣する使を発遣せらるるなり、件の使等は、神祇官の先日差し申すに依りて、大中臣斎部等を以て其の官と為し、諸国に符し給う、但し神祇官より件の使等を立つ。また、畿内七道の使の官符八枚、七道の幣料、正税を以て之に宛つべき官符五枚等なり、合わせて十五枚、と見えたり。この記は、後の小野の宮の右大臣実資公の日記なり。
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『玉勝間』十三の巻 漢ぶりの天神の祭,天皇を天に配と云ふ事続紀に延暦六年十一月甲寅、天神を交野に祀る、その祭文に曰く、維れ延暦六年歳次丁卯十一月庚戌朔甲寅、嗣天子臣諱、云云を遣わし、敢えて昭らかに昊天上帝に告ぐ、臣恭しく云云、高紹天皇を配神として主と作す尚わくは饗けよ。又曰く維れ延暦六年云云、孝子皇帝臣諱、云云を遣わし、敢えて昭らかに高紹天皇に告ぐ、臣云云尚わくは饗けよ、文徳実録、斉衡三年十一月辛酉、云云等を遣わし、後田原山陵に向かわしめ、告ぐるに配天の事を以てす。策に曰く、天皇が大命に坐せ、掛けまくも畏き平城の宮に天の下知らしめしし、倭根子天皇の御門に申し賜えと申さく、今月廿五日、河内国交野の原に、昊天祭せむとして、掛けまくも畏き御門を主と定め奉りて、祭るべき事を、畏み畏みも申し賜わくと申す。壬戌云云、帝自らその諱を署し訖り、板を執りて北面して天を拝す、乃ち云云を遣わし、河内国交野郡柏原野に向かわしめ、蘊を設けて礼を習う、甲子円丘に事有り云云とあるは、から国ぶりの祭にして、皇国の意にあらず。
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