玉勝間 / 一の巻 鎌倉中酒壺の数
同書に、建長四年九月卅日、鎌倉中所所、可禁制沽酒之由、仰保保奉行人等、仍於鎌倉中所所民家、所註之酒壺、三萬七千二百七十四口云云。
新字:同書に、建長四年九月卅日、鎌倉中所所、可禁制沽酒之由、仰保保奉行人等、仍於鎌倉中所所民家、所註之酒壺、三万七千二百七十四口云云。
書き下し
同書に、建長四年九月卅日、鎌倉中の所々、沽酒を禁制すべきの由、保々の奉行人等に仰す、仍て鎌倉中の所々の民家に於いて、註する所の酒壺、三万七千二百七十四口と云々。
現代語訳
同じ書にこうある。「建長四年九月三十日。鎌倉中の所々で酒の売買を禁止するよう、保々(地区ごと)の奉行人たちに命じた。そこで鎌倉中の所々の民家で記録した酒壺は、三万七千二百七十四口であったという。」
解説
鎌倉幕府が酒の売買を禁じたときの記録を写した段である。建長四年、幕府は鎌倉中で酒を売ることを禁じ、地区ごとの奉行人に民家の酒壺を調べさせた。記録された酒壺はなんと三万七千二百七十四口にのぼった。宣長は評を加えていないが、この数字は、当時の鎌倉がどれほど大きな町で、酒造りや酒の商いがどれほど盛んだったかを物語っている。沽酒の禁は、飲酒による乱れや米の浪費を防ぐための政策で、壺を数えるという徹底ぶりに幕府の統制の強さがうかがえる。一つの数字が、都市の規模や暮らしの様子、政治の姿を伝える資料になる。数字を記録として残すことの価値を、あらためて感じさせる一段である。
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