玉勝間 / 四の巻 唐船の事
建長六年四月廿九日、唐船事有沙汰、被定其員數、即今日被施行之、唐船者、五艘之外、不可置之、速可令破却、と見ゆ。猿の舞よりここまでも同じ書なり。
新字:建長六年四月廿九日、唐船事有沙汰、被定其員数、即今日被施行之、唐船者、五艘之外、不可置之、速可令破却、と見ゆ。猿の舞よりここまでも同じ書なり。
書き下し
建長六年四月二十九日、唐船の事沙汰有り、その員数を定めらる、即ち今日これを施行せらる、唐船は、五艘の外、これを置くべからず、速やかに破却せしむべし、と見ゆ。猿の舞よりここまでも同じ書なり。
現代語訳
「建長六年(1254年)四月二十九日、唐船の事について評議があり、その数を定められた。すぐに今日これを施行された。唐船は五艘のほかは置いてはならない。速やかに打ち壊させよ」と見える。猿の舞の段からここまでも同じ書(吾妻鏡)である。
解説
吾妻鏡から、鎌倉幕府が唐船の数を制限した記事を抜いた一段である。唐船とは宋へ渡って交易する船のことで、建長六年、幕府は唐船を五艘までに限り、それ以上は速やかに打ち壊せと命じた。鎌倉時代の日本と宋との間では民間の交易が盛んで、宋銭や書物、陶磁器などが大量にもたらされていた。幕府がその数を絞ったのは、交易を統制しようとしたものと考えられる。宣長は評を加えず、猿の舞からここまでが同じ吾妻鏡からの抜き書きだと断るにとどめる。出典を明示して抜き書きを区切るのは、後で自分も読者も原典に当たれるようにするためである。対外交易という大きな話題を、短い記事一つで書き留めている。
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 鎌倉中酒壺の数同書に、建長四年九月卅日、鎌倉中の所々、沽酒を禁制すべきの由、保々の奉行人等に仰す、仍て鎌倉中の所々の民家に於いて、註する所の酒壺、三万七千二百七十四口と云々。
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