玉勝間 / 一の巻 むかしは銭すくなかりし事
おなじ書に、上品八丈絹六匹、代百廿文(各廿文)紺布二反、(無文)代四文とあり。むかしは錢のいといとすくなかりし程、これにて知るべし。又同書に、工藤庄司景光着佐與美水十、と云ふこと見ゆ。今の世に、布に細目と云ふがあるは、此さよみの訛れる名なるべし。
新字:おなじ書に、上品八丈絹六匹、代百廿文(各廿文)紺布二反、(無文)代四文とあり。むかしは銭のいといとすくなかりし程、これにて知るべし。又同書に、工藤庄司景光着佐与美水十、と云ふこと見ゆ。今の世に、布に細目と云ふがあるは、此さよみの訛れる名なるべし。
書き下し
おなじ書に、上品八丈絹六匹、代百廿文(各廿文)紺布二反、(無文)代四文とあり。むかしは銭のいといとすくなかりし程、これにて知るべし。また同書に、工藤庄司景光、佐与美の水干を着す、と云うこと見ゆ。今の世に、布に細目と云うがあるは、このさよみの訛れる名なるべし。
現代語訳
同じ書に「上等の八丈絹六匹、代金百二十文(それぞれ二十文)。紺布二反(無地)、代金四文」とある。昔は銭がたいへん少なかったことが、これで分かる。また同じ書に「工藤庄司景光が佐与美(さよみ)の水干を着た」ということが見える。今の世に、布に「細目(さいみ)」というものがあるのは、この「さよみ」の訛った名であろう。
解説
吾妻鏡の二つの記事から、物価と布の名の移り変わりを拾った段である。上等の八丈絹が一匹二十文、紺布が一反二文ほど。今の感覚からすると驚くほど安いが、宣長はこれを物が安かったのではなく、世に出回る銭が非常に少なかった証だと読む。貨幣の量が物の値段を決めるという見方で、鎌倉時代は宋銭に頼り、国内で銭を鋳ていなかった事情とも合う。後半は、工藤景光が着た「さよみ」の水干から、江戸で「さいみ」と呼ばれる粗い布の名がその訛りだと推す。記録の片隅の数字や布の名が、経済や言葉の歴史を語り出す。宣長の好奇心が、学問の本筋から離れた細部にまで向いていたことが分かる一段である。
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