玉勝間 / 四の巻 鎌倉ノ頼経将軍手習はじめ
元仁元年、四月廿八日、賴經ノ君、七つにて手習始ノに、長生殿の詩をならはれたりし事、同じふみに見ゆ。
新字:元仁元年、四月廿八日、頼経ノ君、七つにて手習始ノに、長生殿の詩をならはれたりし事、同じふみに見ゆ。
書き下し
元仁元年、四月二十八日、頼経の君、七つにて手習い始めに、長生殿の詩をならわれたりし事、同じふみに見ゆ。
現代語訳
元仁元年(1224年)四月二十八日、頼経君(藤原頼経、のちの鎌倉四代将軍)が七歳で手習い始めをされた時に、長生殿の詩を習われた事が、同じ書(吾妻鏡)に見える。
解説
吾妻鏡から、幼い将軍候補の手習い始めの記事を拾った一段である。藤原頼経は九条家の出で、源実朝の死後、わずか二歳で京から鎌倉に迎えられ、のちに四代将軍となった。その頼経が七歳で初めて筆を習ったとき、手本にしたのが「長生殿」の詩だったという。和漢朗詠集に収める「長生殿の裏には春秋富めり」の句は、長寿と繁栄を祝う句としてよく知られ、手習い始めにも用いられた。幼い子の学びの始めに、長く栄えよという願いを込めたのであろう。宣長は評を加えていないが、武家の都鎌倉でも公家の作法そのままに学びの始めが営まれていたことが、この一行からうかがえる。学びの始めの儀式に込めた願いを読む段である。
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