玉勝間 / 一の巻 年ノ始に病を歓楽といふ事
同書云、承元二年正月十一日云云、依將軍家御歡樂、延及今日、今の世にも、年のはじめには、病と云ふ事をいみて、御歡樂と云ふならはしのこれり。
新字:同書云、承元二年正月十一日云云、依将軍家御歓楽、延及今日、今の世にも、年のはじめには、病と云ふ事をいみて、御歓楽と云ふならはしのこれり。
書き下し
同書に云う、承元二年正月十一日云々、将軍家御歓楽に依りて、延びて今日に及ぶ、今の世にも、年のはじめには、病と云う事をいみて、御歓楽と云うならわしのこれり。
現代語訳
同じ書にこうある。「承元二年正月十一日。将軍家(源実朝)のご歓楽(ご病気)によって、延びて今日に及んだ。」今の世にも、年の初めには病という言葉を忌んで「ご歓楽」と言う習わしが残っている。
解説
病気を「歓楽」と言い換える忌み言葉の習わしが、鎌倉時代から続いていることを示した段である。吾妻鏡に、将軍実朝が病気で正月の行事が延びたことを「御歓楽に依りて」と記している。病という不吉な言葉を避け、あえて正反対のめでたい言葉で言い表したのである。宣長は、自分の時代にも年の初めには病を「御歓楽」と言う習わしが残っていると付け加える。縁起の悪い言葉を避ける忌み言葉は、婚礼で「切る」「別れる」を言わない、「するめ」を「あたりめ」と言う、といった形で今も生きている。言葉には現実を呼び寄せる力があると信じる、言霊の思想がその根にある。一語の言い換えに、古くからの心性が映っている。
関連する章句
-
『玉勝間』十二の巻 としの始に病を歓楽と云ふ事園太暦に、貞和二年正月八日の所に。予風気相侵し仍りて歓楽の間、出座に及ばず、と見えたり。病を歓楽と云えること、これよりさきの物にも見えしように覚ゆ。
-
『玉勝間』八の巻 しぬるを病死と云ふ事今の世、おおやけざまの文書などには、人の死ぬるを、病死と云うことなり。そもそも人は、病ならで死ぬるは、百千の中に、稀れに一人二人などこそ有べけれ、おしなべては、みな病て死ぬる事なれば、それをとり分けては云わでも有ぬべく覚ゆるを、これは昔みだれ世の頃は、戦いて死ぬるもの多かりし故に、病死は病死と、分けて云えりし時のならいのままなるべし。
-
『玉勝間』七の巻 年の始のせちと云ふ事年のはじめに、いわゆる振る舞いなどする事を、節と云う。壬生の忠見家集に、或るところの屏風、正月せちするところ有り、春霞たつと云う日をむかえつつ年のあるじと我やなりなむ。
-
『玉勝間』十の巻 かぐらかぐらは、古えは、神あそびとぞ云える。さればその歌をも、古今集には、かみあそびの歌とぞしるされたる。神楽と書けるも、古くはかみあそびとぞ訓むべき。かぐらと云う名は、如何なる由にて、いつの程よりか云いそめけむ。六帖の題にはかぐらと書けり。
-
『玉勝間』五の巻 かしらかたくといはふ事栄花物がたり、浦々の別の巻に、かしらだにかたくおわしまさば、一天の君にこそおわしますめれ、と有り。今の世の言に、かみかたくと祝うは、これに同じ。
-
『玉勝間』四の巻 東鏡にしるせる事二つ三つ東鏡に、建保二年二月十日、坊門新黄門(忠信)の使者、京都より参着す、蹴鞠の書一巻を送らる、かの卿去年十二月、紫革の韈を聴さる、宗長朝臣も同じ云々。将軍家諸道を賞翫し給う中に、殊に御意に叶う者は、歌鞠の両芸なり。また同年八月二十九日、去る十六日、仙洞の秋十首歌合、二条中将雅経朝臣写し進ず、将軍家殊にこれを賞翫せしめ給う云々。また同三年七月六日、坊門黄門(忠信卿)去る六月二日の仙洞歌合(衆議判)一巻を将軍家に進ぜらる、これ内々の勅定に依るなり云々、将軍は実朝の大臣なり。この大臣、公暁にころされ給わむとせし頃、いろいろあやしきさとしども有りける中に、公氏御鬢つかうまつりけるに、みづから御鬢の髪を一すじ抜き給いて、形見とて給わせけり。また庭の梅の花を見給いて、ゆゆしき歌をなん詠み給いける、「出でていなばぬし無き宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな、同書にしるしたり。また承久のみだれに、中御門の入道中納言宗行の卿、とらわれて、東にくだらるる時、七月十日に、遠江の国菊河のうまやに宿られけるを、よもすがら寝られず、法華経を読みて、屋の柱に書きつけられける。昔南陽軒の菊水、下流を汲みて齢を延ぶ、今東海道の菊河、西岸に宿りて命を失う、とぞ書きつけられける。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る