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玉勝間 / 四の巻 東鏡にしるせる事二つ三つ

東鏡に、建保二年二月十日、坊門新黃門(忠信)使者、自京都參着、被送蹴鞠書一卷、彼卿去年十二月、被聽紫革韈、宗長朝臣同云云。將軍家賞翫諸道給中、殊叶御意者、歌鞠之兩藝也。また同年八月廿九日、去十六日、仙洞秋十首歌合、二條中將雅經朝臣寫進、將軍家殊令賞翫之給云云。また同三年七月六日、坊門黃門(忠信卿)被進去六月二日仙洞歌合(衆議判)一卷於將軍家、是依內內勅定也云云、將軍は實朝ノ大臣なり。此大臣、公曉にころされ給はむとせし頃、いろいろあやしきさとしども有ける中に、公氏御鬢つかうまつりけるに、みづから御鬢の髮を一すぢ拔き給ひて、形見とて給はせけり。又庭の梅の花を見給ひて、ゆゆしき歌をなん詠み給ひける、「出ていなばぬし無き宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな、同書にしるしたり。また承久のみだれに、中御門ノ入道中納言宗行ノ卿、とらはれて、東にくだらるる時、七月十日に、遠江ノ國菊河のうまやに宿られけるを、よもすがら寢られず、法華經を讀みて、屋の柱に書つけられける。昔南陽軒菊水、汲下流而延齡、今東海道菊河、宿西岸而失命とぞ書つけられける。

新字:東鏡に、建保二年二月十日、坊門新黄門(忠信)使者、自京都参着、被送蹴鞠書一巻、彼卿去年十二月、被聴紫革韈、宗長朝臣同云云。将軍家賞翫諸道給中、殊叶御意者、歌鞠之両芸也。また同年八月廿九日、去十六日、仙洞秋十首歌合、二条中将雅経朝臣写進、将軍家殊令賞翫之給云云。また同三年七月六日、坊門黄門(忠信卿)被進去六月二日仙洞歌合(衆議判)一巻於将軍家、是依内内勅定也云云、将軍は実朝ノ大臣なり。此大臣、公暁にころされ給はむとせし頃、いろいろあやしきさとしども有ける中に、公氏御鬢つかうまつりけるに、みづから御鬢の髪を一すぢ抜き給ひて、形見とて給はせけり。又庭の梅の花を見給ひて、ゆゆしき歌をなん詠み給ひける、「出ていなばぬし無き宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな、同書にしるしたり。また承久のみだれに、中御門ノ入道中納言宗行ノ卿、とらはれて、東にくだらるる時、七月十日に、遠江ノ国菊河のうまやに宿られけるを、よもすがら寝られず、法華経を読みて、屋の柱に書つけられける。昔南陽軒菊水、汲下流而延齢、今東海道菊河、宿西岸而失命とぞ書つけられける。

書き下し

東鏡に、建保二年二月十日、坊門新黄門(忠信)の使者、京都より参着す、蹴鞠の書一巻を送らる、かの卿去年十二月、紫革の韈を聴さる、宗長朝臣も同じ云々。将軍家諸道を賞翫し給う中に、殊に御意に叶う者は、歌鞠の両芸なり。また同年八月二十九日、去る十六日、仙洞の秋十首歌合、二条中将雅経朝臣写し進ず、将軍家殊にこれを賞翫せしめ給う云々。また同三年七月六日、坊門黄門(忠信卿)去る六月二日の仙洞歌合(衆議判)一巻を将軍家に進ぜらる、これ内々の勅定に依るなり云々、将軍は実朝の大臣なり。この大臣、公暁にころされ給わむとせし頃、いろいろあやしきさとしども有りける中に、公氏御鬢つかうまつりけるに、みづから御鬢の髪を一すじ抜き給いて、形見とて給わせけり。また庭の梅の花を見給いて、ゆゆしき歌をなん詠み給いける、「出でていなばぬし無き宿となりぬとも軒端の梅よ春をわするな、同書にしるしたり。また承久のみだれに、中御門の入道中納言宗行の卿、とらわれて、東にくだらるる時、七月十日に、遠江の国菊河のうまやに宿られけるを、よもすがら寝られず、法華経を読みて、屋の柱に書きつけられける。昔南陽軒の菊水、下流を汲みて齢を延ぶ、今東海道の菊河、西岸に宿りて命を失う、とぞ書きつけられける。

現代語訳

東鑑(吾妻鏡、鎌倉幕府の記録)に、「建保二年(1214年)二月十日、坊門新中納言(忠信)の使者が京都から到着し、蹴鞠の書一巻を送ってこられた。あの卿は去年十二月に紫革の韈(しとうず、鞠を蹴るときの沓下)を許され、宗長朝臣も同じく許された」云々とある。将軍家が諸道を賞翫なさる中で、特にお気に召したのは歌と鞠の二つの芸であった。また同年八月二十九日に、「去る十六日の仙洞(後鳥羽上皇の御所)の秋十首歌合を、二条中将雅経朝臣が書き写して献上し、将軍家はことにこれを賞翫なさった」云々。また同三年七月六日に、「坊門中納言(忠信卿)が、去る六月二日の仙洞歌合(衆議判)一巻を将軍家に献上された。これは内々の勅命によるものである」云々。将軍とは実朝大臣(源実朝)である。この大臣が公暁に殺されようとしていた頃、いろいろ不思議な前兆があった中に、公氏が御鬢の髪を整え申し上げたとき、自ら鬢の髪を一筋抜かれて、形見だといってお与えになった。また庭の梅の花をご覧になって、不吉な歌をお詠みになった。「私が出て行ってしまったら、主のいない家となってしまうとしても、軒端の梅よ、春を忘れずに咲いてくれ」と、同じ書に記してある。また承久の乱の時に、中御門入道中納言宗行卿が捕らえられて東国へ下される途中、七月十日に遠江国の菊河の宿駅に泊まられたが、一晩中眠れず、法華経を読んで、宿の柱に書きつけられた。「昔、南陽の菊水では、その下流を汲んで寿命を延ばしたという。今、東海道の菊河では、その西岸に宿って命を失う」と書きつけられたのである。

解説

吾妻鏡から、印象に残る記事をいくつか抜き書きした一段である。まず、将軍源実朝が諸芸の中でも歌と鞠を特に好み、京の公家から蹴鞠の書や後鳥羽上皇の御所の歌合を取り寄せていた記事を並べる。鎌倉の武家の棟梁が、京の雅びにどれほど心を寄せていたかがわかる。続いて、公暁に殺される直前、実朝が鬢の髪を形見に与え、「軒端の梅よ春をわするな」と詠んだという不吉な前兆の話を引く。さらに承久の乱で捕らえられた藤原宗行が、菊河の宿で、長寿の故事で名高い中国の菊水と、命を失いに行く自分の菊河とを対にして柱に書きつけた話を記す。宣長は評を加えず、史書の中の歌や詩を拾い集めている。記録の中にも、人の心が歌として残っている。宣長はそこに目を留めたのである。

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