玉勝間 / 一の巻 同卿二所荘を建礼門院に奉らるる事
同書云、文治三年二月一日、二品以沒官領內二箇所、可被避于建禮門院之由、有其沙汰、是攝津國眞井島屋兩庄也、元者八條前內府知行云云、依被訪申彼御幽栖也。
新字:同書云、文治三年二月一日、二品以没官領内二箇所、可被避于建礼門院之由、有其沙汰、是摂津国真井島屋両庄也、元者八条前内府知行云云、依被訪申彼御幽栖也。
書き下し
同書に云う、文治三年二月一日、二品、没官領の内二箇所を以て、建礼門院に避らるべきの由、其の沙汰有り、是れ摂津国真井・島屋両庄なり、元は八条前内府の知行と云々、彼の御幽栖を訪い申さるるに依るなり。
現代語訳
同じ書にこうある。「文治三年二月一日。二品(源頼朝)が、没収した所領のうち二箇所を建礼門院に譲られるとの沙汰があった。これは摂津国の真井・島屋の両荘である。もとは八条前内大臣(平宗盛)の知行であったという。院の御隠棲の暮らしをお見舞い申し上げるためである。」
解説
平家滅亡後、頼朝が建礼門院に荘園を献じた記事を吾妻鏡から写した段である。建礼門院徳子は平清盛の娘で安徳天皇の母。壇ノ浦で入水しながら助け上げられ、出家して京の大原に隠れ住んでいた。頼朝は、平家から没収した所領のうち、もと兄宗盛の領地であった摂津の二つの荘を、その暮らしの資に充てた。敵の一族であっても、天皇の母となった女院の生活は見捨てないという配慮である。平家物語の大原御幸で知られる女院の後半生を、幕府の記録の側から支える事実として読むと味わい深い。宣長が題に「奉らるる」と敬語を用いているのも、女院に対する敬意の表れであろう。勝者が敗者の遺族をどう遇するかに、その器量が表れる。
関連する章句
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