玉勝間 / 一の巻 からうたの読みざま
童蒙抄に、或る人北野にまうでて、東行南行雲眇眇、二月三月日遲遲、と云ふ詩を詠じけるに、すこしまどろみたる夢に、とさまにゆきかうさまにゆきてくもはるばる、きさらぎやよひ日うらうら、とこそ詠ずれと仰られけり云云とあり。むかしは詩をも、うるはしくは斯くさまにこそ讀みあげけめ、詠むるはさらなり、古へはすべてからぶみを讀むにも、讀まるるかぎりは、皇國言に讀めるは、字音は聞にくかりしが故なり。然るを今はかへさまになりて、なべての詞も、皇國言よりは、字音なるをうるはしき事にし、書讀むにも、讀まるるかぎりは、字音に讀むを善き事とすなるは、からぶみ學びのためには、字音に讀むかたよろしき故もあればぞかし。
新字:童蒙抄に、或る人北野にまうでて、東行南行雲眇眇、二月三月日遅遅、と云ふ詩を詠じけるに、すこしまどろみたる夢に、とさまにゆきかうさまにゆきてくもはるばる、きさらぎやよひ日うらうら、とこそ詠ずれと仰られけり云云とあり。むかしは詩をも、うるはしくは斯くさまにこそ読みあげけめ、詠むるはさらなり、古へはすべてからぶみを読むにも、読まるるかぎりは、皇国言に読めるは、字音は聞にくかりしが故なり。然るを今はかへさまになりて、なべての詞も、皇国言よりは、字音なるをうるはしき事にし、書読むにも、読まるるかぎりは、字音に読むを善き事とすなるは、からぶみ学びのためには、字音に読むかたよろしき故もあればぞかし。
書き下し
童蒙抄に、或る人北野にもうでて、東行南行雲眇眇、二月三月日遅遅、と云う詩を詠じけるに、すこしまどろみたる夢に、とさまにゆきこうさまにゆきてくもはるばる、きさらぎやよい日うらうら、とこそ詠ずれと仰せられけり云々とあり。むかしは詩をも、うるわしくは斯くさまにこそ読みあげけめ、詠むるはさらなり、古えはすべてからぶみを読むにも、読まるるかぎりは、皇国言に読めるは、字音は聞きにくかりしが故なり。然るを今はかえさまになりて、なべての詞も、皇国言よりは、字音なるをうるわしき事にし、書読むにも、読まるるかぎりは、字音に読むを善き事とすなるは、からぶみ学びのためには、字音に読むかたよろしき故もあればぞかし。
現代語訳
『和歌童蒙抄』に、ある人が北野天満宮に詣でて「東行南行雲眇眇、二月三月日遅遅」という詩を吟じたところ、少しまどろんだ夢に(天神が現れて)「とさまにゆきこうさまにゆきてくもはるばる、きさらぎやよい日うらうら、と吟ずるものだ」と仰せられた、などとある。昔は詩をも、きちんとした場ではこのように読み上げたのであろう。まして歌として詠じるときは言うまでもない。古はすべて漢籍を読むにも、読めるかぎりは日本の言葉で読んだのは、字音が聞きにくかったからである。それなのに今は逆になって、普通の言葉も日本の言葉よりは字音のものを立派なこととし、書物を読むにも、読めるかぎりは字音で読むのを良いこととしているのは、漢籍の学びのためには字音で読む方がよい理由もあるからである。
解説
関連する章句
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『玉勝間』一の巻 からぶみ読みのことば漢籍を読むに、世のつねにことなる語の多きは、いと古くより読み来つるままの古語なるが、後に音便にくづれたるなり。曰をノタウマクと訓むは、ノタマハクの音便なり。またノタバクにても有るべし。古言に、フをタブとも云う故に、万葉の歌に、ノタマハクを、ノタバクとも詠めればなり。故をカルガユヱニと訓むは、カルガユエニなるを、カを一つはぶけるなり。是れは音便と云うには有らず。然而をシカウシテと訓むは、シカシテに、ウを添えたるにて、八日をヤウカ、女房をニヨウバウという類なり。是以をコレヲモテと訓まずして、ココヲモテと訓むは、古言のままなり。古言には、コレと云うべきを、ココと云える事つねに多し。さて以をモツテとひきつめて訓むは、例のいやしき音便なり。慮をオモンハカル、以をオモンミルと訓むは、オモヒハカル、オモヒミルなり。垂をナンナントスと訓むは、ナリナムトスなり。然るをナンナンタリとも訓むはひがことなり。欲をホツスと訓むは、ホリスなり。件をクダンノとよむは、クダリノなり。親をシタシンズ、重をオモンズ、賤をイヤシンズと訓むたぐいは、シタシミス、オモミス、イヤシミスにて、皆古言の格なり。
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『玉勝間』十一の巻 万葉集をよむこころばへ然れども誤字なるを知らずして、本のままに訓めるなどには、強いたる事多く、そのほかすべての訓みざまも、なおよからざること多きを、その後またこの集の事、いよいよ委しくなりもてきぬるまにまに、訓もいと善くなれれども、なおいまだ〓く直りはてたりとは云いがたし。まず誤字のことごとく知られざる程は、訓もことごとくよろしくは直り難きわざなり。誤字のなおいと多かるを、その字のままに訓まむとせむには、かえりてしい言になるたぐい多かるべきをよく心得べし。またすべての訓みざま、仮字書きの所をよく考えて、その例をもてよむべきなり。おおかたこれら、この集をよむに、むねと心得べき事どもなりかし。
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『玉勝間』一の巻 もろこしぶみをも読むべき事から国の書をも、いとまのひまには、ずいぶんに見るぞ善き。漢籍も見ざれば、その外国のふりの悪しき事も知られず。また古書はみな漢文もて書きたれば、かの国ぶりの文も知らでは、学問もことゆきがたければなり。かの国ぶりの、よろづに悪しき事をよくさとりて、皇国だましいだに強くして、動かざれば、夜ひるからぶみを見ても、心は迷う事無し。然れども、かの国ぶりとして、人の心さかしく、何事をも理を尽くしたるように、こまかに論い、よさまに説きなせる故に、それを見れば、かしこき人も、おのづから心うつり易く、まどい易きならいなれば、から書見むには、つねにこのことを忘るまじきなり。
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『玉勝間』一の巻 音便の事古語の中にも、いとまれまれに音便あれども、後の世のとはみな異なり。後の世の音便は、奈良の末つかたより、かつがつ見えそめて、世々をふるままに、ようように多くなれり。そは漢字三音考の末に云える如く、おのづから定まり有りて、もろもろの音便五くさを出でず。抑この音便は、みな正しき言にあらず、くづれたるものなれば、古書などを読むには、一つもまじう可きにあらざるを、後の世の物知り人、その本の語をわきまえずして、世のつねに云いなれたる音便のままに読むは、なおざりなる事なり。すべて後の世には、音便の言いといと多くして、まどいやすし。本の語をよく考えて、正しく読むべきなり。中にもンと云う音のことに多き、これもと古言の正しき音にあらず、ことごとく後の音便なりとこころうべし。さてその音便のンの下は、本の語は清音なるをも濁らるる音なれば、皆必ず濁る例なり。たとえばネモコロと云う言を、後にはネンゴロと云うが如し。ンの下のコ文字、本の語は清音なるを、上のモをンと云うにひかれて濁る、みなこの格なり。然るを世の人、その音便のときの濁りに口なれて、正しく読むときも、ネモゴロと、コをにごるはひが事なり。この例多し。心得おくべし。
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事すべて近き世の儒者、いと遠きからぶみに、稀れに見えたる事の、ここの言と似たるを見つくれば、皆それより出でたる事と、すなるは、いとおかしき事ぞかし。大かた後の世の語に、字音の言の多きは、多くは仏書の言なる。こは昔僧どもの、常に云うを、聞きなれて、うつれる物なり。またほとけぶみの言ならぬも、世にひろく読みならえる書に有る詞こそ有れ、遠き書に、稀れ稀れ見えたる言は、ほうしも儒者も、口につねに云う物には有らざれば、ましてなべての世の人の、聞き知りてならい云うべきよし無きものをや。
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『玉勝間』四の巻 御国の言と外ッ国の言とおのづから似たるも同じきもある事皇国の古言と、漢字の音と、おのづから同じきも、まま有るなり。ケと気、ヤと耶、サカと尺、ウマと馬、ニと死、ハグと剥、スと洲などの如し。なお有るべし。また蝉は、セミセミと鳴けば、その声によれる、本よりの名か、字の音をとれるか、これらはわきまえがたし。このたぐいもなお有るべし。文、銭、関などは、字音なる事しるし。然るをこの文、銭などになずらえて、いささかも似たるが有れば、皆その字音をとれりと心得るは、ひが事なり。また梵語、朝鮮語などと似たるが有れば、それをもかれを取れる物と思うめり。まづ梵語をとりて、ここの言にしたるは、有る事無し。たまたま似たるが有るは、おのづからの事なり。千万の言の中には、おのづから似たるも、同じきも、などか無からん。また今の朝鮮の言と同じきは、寺、郡などのたぐいは、まことに韓語をとれるなり。
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