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玉勝間 / 一の巻 言をもじと云ふ事

歌のみそぢひともじを、近きころ古學するともがらは、字と云ふ事をきらひて、卅一言と云ひ、五もじ七もじなどをも、五言七言とのみ云ふなれ共、古今集の序にも、みそもじあまりひともじと有て、古へより斯く云へり。すべてもじと云ふは、文字の字の音にて、御國言にはあらざれども、もんじと云はずして、もじと云へば、字の音共聞えず、御國言めきてきこゆる。此外にも、ほうし、せに、ふみなどのたぐひ、字の音を直して、やがて御國言に用ひたる例多かり。されば古き物語ぶみなどにも、詞をことばと云ひて惡ろき所をば、もじと云へること多し。のもじ、をもじなど云ふ類なり。これらをも、近く古學の輩の、のの語、をの語など云ふなるは、中中にからめきてぞ聞ゆる。源氏物語などには、別と云ふ事をすら、わかれと云ふもじと云ひ、葵ノ卷には、今はさるもじいませ給へなど有るも、さる詞と云ふ事なり。かく詞と云ひても善きをだに、もじと云へる事あれば、まして五もじ七もじのもじをもじなどのたぐひは、更なり。

新字:歌のみそぢひともじを、近きころ古学するともがらは、字と云ふ事をきらひて、卅一言と云ひ、五もじ七もじなどをも、五言七言とのみ云ふなれ共、古今集の序にも、みそもじあまりひともじと有て、古へより斯く云へり。すべてもじと云ふは、文字の字の音にて、御国言にはあらざれども、もんじと云はずして、もじと云へば、字の音共聞えず、御国言めきてきこゆる。此外にも、ほうし、せに、ふみなどのたぐひ、字の音を直して、やがて御国言に用ひたる例多かり。されば古き物語ぶみなどにも、詞をことばと云ひて悪ろき所をば、もじと云へること多し。のもじ、をもじなど云ふ類なり。これらをも、近く古学の輩の、のの語、をの語など云ふなるは、中中にからめきてぞ聞ゆる。源氏物語などには、別と云ふ事をすら、わかれと云ふもじと云ひ、葵ノ巻には、今はさるもじいませ給へなど有るも、さる詞と云ふ事なり。かく詞と云ひても善きをだに、もじと云へる事あれば、まして五もじ七もじのもじをもじなどのたぐひは、更なり。

書き下し

歌のみそじひともじを、近きころ古学するともがらは、字と云う事をきらいて、卅一言と云い、五もじ七もじなどをも、五言七言とのみ云うなれども、古今集の序にも、みそもじあまりひともじと有りて、古えより斯く云えり。すべてもじと云うは、文字の字の音にて、御国言にはあらざれども、もんじと云わずして、もじと云えば、字の音とも聞こえず、御国言めきてきこゆる。この外にも、ほうし、ぜに、ふみなどのたぐい、字の音を直して、やがて御国言に用いたる例多かり。されば古き物語ぶみなどにも、詞をことばと云いて悪ろき所をば、もじと云えること多し。のもじ、をもじなど云う類なり。これらをも、近く古学の輩の、のの語、をの語など云うなるは、中々にからめきてぞ聞こゆる。源氏物語などには、別と云う事をすら、わかれと云うもじと云い、葵の巻には、今はさるもじいませ給えなど有るも、さる詞と云う事なり。かく詞と云いても善きをだに、もじと云える事あれば、まして五もじ七もじのもじをもじなどのたぐいは、さらなり。

現代語訳

歌の三十一文字を、近頃古学をする人々は「字」ということを嫌って「三十一言」と言い、五文字・七文字なども「五言」「七言」とばかり言うが、古今集の序にも「みそもじあまりひともじ」とあって、古からこう言ってきた。そもそも「もじ」というのは文字の「字」の音であって、日本の言葉ではないけれども、「もんじ」と言わずに「もじ」と言えば、字音とも聞こえず、日本の言葉らしく聞こえる。このほかにも、ほうし(法師)、ぜに(銭)、ふみ(文)などの類のように、字音を直してそのまま日本の言葉に用いた例は多い。だから古い物語などにも、「詞」を「ことば」と言っては具合の悪い所を「もじ」と言っていることが多い。「のもじ」「をもじ」などという類である。これらまでも、近頃古学の人々が「のの語」「をの語」などと言うのは、かえって漢めいて聞こえる。源氏物語などでは「別」ということさえ「わかれというもじ」と言い、葵の巻には「今はさるもじ忌ませ給え」などとあるのも、「そういう言葉」ということである。このように「詞」と言ってもよいところでさえ「もじ」と言うことがあるのだから、まして五もじ・七もじの「もじ」や「をもじ」などの類は言うまでもない。

解説

古学の仲間たちの行き過ぎをたしなめた段である。彼らは「字」は漢語だからと嫌い、三十一文字を「三十一言」、五文字・七文字を「五言」「七言」と言い換えていた。宣長は、古今集の序にも「みそもじあまりひともじ」とあるではないかと指摘する。「もじ」はもとは字音だが、法師・銭・文と同じく、すでに日本の言葉として馴染んだ語だ。源氏物語でも言葉の意味で「もじ」を使っている。それをわざわざ「言」に替えるのは、かえって漢文調に聞こえる、と。外来のものを排する運動が、かえって不自然な言葉を生むという皮肉を見抜いている。漢意を批判する宣長が、同時に形だけの純化主義も退けているところに、言葉への確かな感覚がうかがえる。

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