退食閑話 / 道を弘むとは何か
余弘道館より退き、机に凭て書を繙せし折、一人來て閑談す、語次敎學の事に及ぶ、其人問て云、今度國に學館を設け弘道館と名づけ、記文を碑に勒して其大意を喩し給ふ、某拜誦して頗る盛意の萬一を曉りしやうなれども、いまだ其詳なる事を知り得ず、願くは其義を委曲に解喩せられよ、答曰、某不才にして、猥に敎職に命ぜられ候得ども、學術淺陋にして、其任に堪へず、されども、一日にても敎職を潰し居らんに、吾子が問に答へざらむも本意ならず、敢て愚說を是なりとするに非ざれども、即ち管見の及ぶほどの事は告申べし、吾子又廣く有道の君子に就て、愚說の當否を質されよ、客曰、されば一二の疑義を問申べし、先ッ人能弘道との經語の意は、道は性中に備るものなれば、わが心を以てわが性を盡して、道を弘むるの義と承はる、然るに、弘道館の記に心性を說給はず、師說と異なるに似たるは何ぞや、答曰、中庸に率性之謂道、脩道之謂敎と申せば、道を脩て性に率ふは勿論なり、されども、是は道の立たる本を論じたる詞なり、道を弘むるとは本は性に率て立たる道なれども、是を人の所業によりて天下に推廣むるの義なれば、道の本を論ずるとは其指の所異なり、
新字:余弘道館より退き、机に凭て書を繙せし折、一人来て閑談す、語次教学の事に及ぶ、其人問て云、今度国に学館を設け弘道館と名づけ、記文を碑に勒して其大意を喩し給ふ、某拝誦して頗る盛意の万一を暁りしやうなれども、いまだ其詳なる事を知り得ず、願くは其義を委曲に解喩せられよ、答曰、某不才にして、猥に教職に命ぜられ候得ども、学術浅陋にして、其任に堪へず、されども、一日にても教職を潰し居らんに、吾子が問に答へざらむも本意ならず、敢て愚説を是なりとするに非ざれども、即ち管見の及ぶほどの事は告申べし、吾子又広く有道の君子に就て、愚説の当否を質されよ、客曰、されば一二の疑義を問申べし、先ッ人能弘道との経語の意は、道は性中に備るものなれば、わが心を以てわが性を尽して、道を弘むるの義と承はる、然るに、弘道館の記に心性を説給はず、師説と異なるに似たるは何ぞや、答曰、中庸に率性之謂道、脩道之謂教と申せば、道を脩て性に率ふは勿論なり、されども、是は道の立たる本を論じたる詞なり、道を弘むるとは本は性に率て立たる道なれども、是を人の所業によりて天下に推広むるの義なれば、道の本を論ずるとは其指の所異なり、
書き下し
余弘道館より退き、机に凭て書を繙せし折、一人來て閑談す、語次敎學の事に及ぶ、其人問て云、今度國に學館を設け弘道館と名づけ、記文を碑に勒して其大意を喩し給ふ、某拜誦して頗る盛意の萬一を曉りしやうなれども、いまだ其詳なる事を知り得ず、願くは其義を委曲に解喩せられよ、答曰、某不才にして、猥に敎職に命ぜられ候得ども、學術淺陋にして、其任に堪へず、されども、一日にても敎職を潰し居らんに、吾子が問に答へざらむも本意ならず、敢て愚說を是なりとするに非ざれども、即ち管見の及ぶほどの事は告申べし、吾子又廣く有道の君子に就て、愚說の當否を質されよ、客曰、されば一二の疑義を問申べし、先ッ人能く道を弘むとの經語の意は、道は性中に備るものなれば、わが心を以てわが性を盡して、道を弘むるの義と承はる、然るに、弘道館の記に心性を說給はず、師說と異なるに似たるは何ぞや、答曰、中庸に性に率ふ、之を道と謂ふ。道を脩む、之を敎と謂ふと申せば、道を脩て性に率ふは勿論なり、されども、是は道の立たる本を論じたる詞なり、道を弘むるとは本は性に率て立たる道なれども、是を人の所業によりて天下に推廣むるの義なれば、道の本を論ずるとは其指の所異なり、
現代語訳
私が弘道館から退いて机に寄りかかり書を開いていたとき、一人の客が来て雑談をしました。話が教学のことに及び、その人は問いました。「このたび国に学館を設けて弘道館と名づけ、記文を碑に刻んでその大意を示されました。私は拝読して、公の深いお心のほんの一端は理解したように思いますが、まだ詳しいことはわかりません。どうかその意味を詳しく解き明かしてください。」私は答えました。「私は不才なのに、みだりに教職を命じられましたが、学問は浅く粗末で、その任に堪えません。しかし一日でも教職を預かっている以上、あなたの問いに答えないのも本意ではありません。自分の愚かな説を正しいと言うのではなく、浅い見識の及ぶ範囲のことをお話しします。あなたもさらに広く道ある君子に尋ねて、私の説の当否を確かめてください。」客は言いました。「ではまず一、二の疑問を尋ねます。『人能く道を弘む』という経典の語の意味は、道は性の中に備わるものだから、自分の心で自分の性を尽くして道を広めるということだと聞いています。ところが弘道館記は心や性を説いておられません。師から学んだ説と異なるようですが、なぜですか。」答えました。「中庸に『性に率ふ、之を道と謂ふ。道を脩む、之を教と謂ふ』とある以上、道を修めて性に従うのはもちろんです。しかしそれは、道が成り立つ根本を論じた言葉です。『道を弘む』とは、本は性に従って成り立った道であっても、それを人の行いによって天下に押し広めるという意味ですから、道の根本を論じる場合とは、指すところが異なるのです。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『養生訓』巻第二・総論下一一時の浮気を恣にすれば、一生の持病となり、或は即時に命あやふき事あり。莫大の禍は、しばしの間こらへざるに起る。おそるべし。一養生の道は中を守るべし。中を守るとは過不及なきを云ふ。食物はうゑを助くるまでにてやむべし。過ぎて恣なるべからず。是中を守るなり。物ごとにかくの如くなるべし。
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『慎思録』巻之三天下の理は、中を得るを至りと為す。学者は当に中を以て準的と為すべし。然れども中を得ること尤も難し。苟も其の中を得ること能はずんば、厚に過ぐるの優れりと為すに若かず。蓋し躁進は孰れか廉退の過に若かん。懈惰は孰れか勉強の過に若かん。驕夸は孰れか謙遜の過に若かん。故に夫子曰く、礼は其の奢らんよりは寧ろ倹なれ。喪は其の易めんよりは寧ろ戚め、と。
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『翁問答』下卷之末之末初学より権の道を目あてにせざれば此あやまりうたがひあるものなり、儒書にのする礼儀作法をすこしもちがへず、残所なく取おこなふを儒道をおこなふと思へるは大なるあやまりなり、たとひ儒書にのする所の礼法をすこしもちがはず皆とりおこなふといふとも、其おこなふ所時と処と位とに相応適当恰好の道理なくば儒道をおこなふにはあらず、異端なり、そのおこなふ所時に相応適当しても、その心に名利の私あるは、にせもの小人と云ものにて、君子の儒にあらずたとひまたその行ところ儒書にする所の礼儀作法にちがひなきも、その事中庸の天理にあたりその心私なく、聖賢の心法にかなひぬれば、儒道を行ふ君子なり、かくの如く礼儀作法になづまず真実の儒道をおこなふは、何国にてもおこなひがたき事はなきものなり、夷狄に素しては夷狄に行ひ、患難に素しては患難に行ふ、君子入るとして自得せざること無しとのたまふは此意なり。
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『都鄙問答』卷之二・或人親へ仕之事ヲ問之段曰く、其所にはぬかりなく、小者や男どもには心づけを致し、堅く口を閉ぢおき候ゆへ、家内には露塵存じ申さず候。答ふ、小者下男まで、口を閉ぢて置くゆへ、家内には少しも知らずと思へるは、甚だ愚かなり。汝が悪事は、我よりいはざる先に、天下に明らかなり。中庸に、隠れたるより見はるるは莫しと説き玉へり。未だ形はれずといへども、幾は已に動く。動けばこれ明らかなり。人は知らずと思ふとも、汝が心に、悪事と知る。しるゆへに口をとづ。悪事と知らば、なんぞ速かに止めざる。子曰く、義を見て為さざるは勇無きなりと。其上小者、悪所金のつかひやうを見覚え、又偽りを聞き習ひ、成人の上へ、汝の教へし通りを守り、金銀を盗みつかうて、引負する手代ばかりに成るべし。これ我導きに依りて、人を害ふものなれば、
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『家道訓』巻之四・用財上一家ををさめ、財を用ふるに、事ごとに心を用ひて精しくし、こまやかにして疎略なるべからず。おごらずやぶさかならず、過不及なくよき程にすべし。用ひ過すはおごれり、不及なるはやぶさかなり。心あしくして、大やうにおろそかなれば、財の用ひやう過不及にして、或はおごり或はやぶさかなり。与ふべきものを与へず、与ふまじきものに与へ、多く与ふべき者にすくなくし、すくなかるべきに多くするは、事そむきて理にあたらず。是心を用ひず、用ひても精しからざるなり。
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『慎思録』巻之二荀子曰く、君子の行ひは苟難を貴ばず、唯だ其の当たるを之れ貴しと為す、と。愚謂ふ、苟難を貴ぶ者は、此れ名を好むの人なり。蓋し君子の行ひは、本分の外に、毫末をも加へず。若し夫れ股を割き墓に廬し、車を敝り馬を羸らすの類は、此れ皆本分の外に出づ。所謂苟難を貴ぶ者なり。

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