導師導古典を学びたいすべての人に

翁問答 / 下卷之末之末

初學より權の道を目あてにせざれば此あやまりうたがひあるものなり、儒書にのする禮儀作法をすこしもちがへず、殘所なく取おこなふを儒道をおこなふと思へるは大なるあやまりなり、たとひ儒書にのする所の禮法をすこしもちがはず皆とりおこなふといふとも、其おこなふ所時と處と位とに相應適當恰好の道理なくば儒道をおこなふにはあらず、異端なり、そのおこなふ所時に相應適當しても、その心に名利の私あるは、にせもの小人と云ものにて、君子の儒にあらずたとひまたその行ところ儒書にする所の禮儀作法にちがひなきも、その事中庸の天理にあたりその心私なく、聖賢の心法にかなひぬれば、儒道を行ふ君子なり、かくの如く禮儀作法になづまず眞實の儒道をおこなふは、何國にてもおこなひがたき事はなきものなり、素夷狄行乎夷狄素患難行乎患難君子無入而不自得焉とのたまふは此意なり。

新字:初学より権の道を目あてにせざれば此あやまりうたがひあるものなり、儒書にのする礼儀作法をすこしもちがへず、残所なく取おこなふを儒道をおこなふと思へるは大なるあやまりなり、たとひ儒書にのする所の礼法をすこしもちがはず皆とりおこなふといふとも、其おこなふ所時と処と位とに相応適当恰好の道理なくば儒道をおこなふにはあらず、異端なり、そのおこなふ所時に相応適当しても、その心に名利の私あるは、にせもの小人と云ものにて、君子の儒にあらずたとひまたその行ところ儒書にする所の礼儀作法にちがひなきも、その事中庸の天理にあたりその心私なく、聖賢の心法にかなひぬれば、儒道を行ふ君子なり、かくの如く礼儀作法になづまず真実の儒道をおこなふは、何国にてもおこなひがたき事はなきものなり、素夷狄行乎夷狄素患難行乎患難君子無入而不自得焉とのたまふは此意なり。

書き下し

初学より権の道を目あてにせざれば此あやまりうたがひあるものなり、儒書にのする礼儀作法をすこしもちがへず、残所なく取おこなふを儒道をおこなふと思へるは大なるあやまりなり、たとひ儒書にのする所の礼法をすこしもちがはず皆とりおこなふといふとも、其おこなふ所時と処と位とに相応適当恰好の道理なくば儒道をおこなふにはあらず、異端なり、そのおこなふ所時に相応適当しても、その心に名利の私あるは、にせもの小人と云ものにて、君子の儒にあらずたとひまたその行ところ儒書にする所の礼儀作法にちがひなきも、その事中庸の天理にあたりその心私なく、聖賢の心法にかなひぬれば、儒道を行ふ君子なり、かくの如く礼儀作法になづまず真実の儒道をおこなふは、何国にてもおこなひがたき事はなきものなり、夷狄に素しては夷狄に行ひ、患難に素しては患難に行ふ、君子入るとして自得せざること無しとのたまふは此意なり。

現代語訳

初学のうちから権の道を目当てにしなければ、この誤りや疑いが起こるものである。儒書に載せる礼儀作法を少しも違えず、残らず行うことを儒道を行うことだと思うのは大きな誤りである。たとえ儒書に載せる礼法を少しも違えずにすべて行うとしても、その行いが時と所と位に相応し、ちょうどよく適う道理がなければ、儒道を行うのではなく異端である。その行いが時に相応し適っていても、その心に名利の私があるのは、偽物の小人というもので、君子の儒ではない。たとえまたその行いが儒書に載せる礼儀作法と違っていても、その事が中庸の天理に当たり、その心に私がなく、聖賢の心法にかなっていれば、儒道を行う君子である。このように礼儀作法にこだわらず真実の儒道を行うのは、どこの国でも難しいことはない。『中庸』に「夷狄の地にあっては夷狄の地にふさわしく行い、患難にあっては患難にふさわしく行う。君子はどこに入っても自ら満ち足りないことはない」とあるのはこの意味である。

解説

儒道を行うかどうかは、形の一致ではなく、時・所・位にかなっているかと、心に私がないかの二点で決まると藤樹は明言する。書物どおりでも状況に合わなければ異端、状況に合っていても名利の心があれば小人、書物と違っても中庸の天理と聖賢の心にかなえば君子である。結びの『中庸』十四章は、どんな境遇でもその場にふさわしく生きる君子の自在さを語る。手順書どおりに動くことが目的になると本末が転倒する。目的にかない私心がないかを問い直すことが、どの職場でも通用する働き方である。

この章句が説くこと

中庸心法私心君子時処位儒道

関連する章句

古典の入門書『人生の教科書』の表紙

人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。

古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。

本の中身を見る
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)+師導1か月=700円 本を見る