駿台雑話 / 兵は詭道三
此事を朱子兵を論ずるとていひ出で、兵はかくあるべき事なりと仰られし、語類に見えしと覺へ侍る、されば孔子も三軍を行はゞ、臨事而懼好謀而成者にくみせんとの給へり、異國の事は遠ければ姑くさし置、我朝武家の世になりしより、天下攻伐をつとめて、戰爭やむ事なかりし、建武以來宮方武家がたとて、諸國にたて分れて、日夜合戰に及しかども、いづれも諸國假合の卒をあつめて、衆の多寡をくらべ兵の强弱を爭ひ、なにの成策もなく、兩軍よせ合せて相撲角力の塲のごとく、一時に勝負を決する外はなし、或は勝時もあり或は負る時もあり、勝も負も一旦の事にて、むなしく士卒を多くころしてやみぬ、なにの兵法か論ずべき、いはゆる齊の技擊魏の勇卒ともいふべし、足利氏の季世に至て、英雄蠭起し、四方に割據して、兵を磨士を養ひ、日ごろ附循して用ひしかば、其兵勇銳にして百戰して挫けず、秦の銳士ともいふべきにや、中にも武田上杉などの兵は號令脩り、約束明かに、師出るに律をもてすれば、桓文の節制にも近かるべし、されば本朝の兵は、こゝに至て始て兵法をも論ずべかめり、然れども當代兵家者流と號する人、多くはかの兵律を傳るのみにて、兵法のもとは、敵を料り勝ことを制するの謀にありといふ事をしらず、其中ことに理にくらき人は、兵に荷擔して、國家を治るの道も是に外ならずといふめる、
新字:此事を朱子兵を論ずるとていひ出で、兵はかくあるべき事なりと仰られし、語類に見えしと覚へ侍る、されば孔子も三軍を行はゞ、臨事而懼好謀而成者にくみせんとの給へり、異国の事は遠ければ姑くさし置、我朝武家の世になりしより、天下攻伐をつとめて、戦争やむ事なかりし、建武以来宮方武家がたとて、諸国にたて分れて、日夜合戦に及しかども、いづれも諸国仮合の卒をあつめて、衆の多寡をくらべ兵の強弱を争ひ、なにの成策もなく、両軍よせ合せて相撲角力の塲のごとく、一時に勝負を決する外はなし、或は勝時もあり或は負る時もあり、勝も負も一旦の事にて、むなしく士卒を多くころしてやみぬ、なにの兵法か論ずべき、いはゆる斉の技撃魏の勇卒ともいふべし、足利氏の季世に至て、英雄蠭起し、四方に割拠して、兵を磨士を養ひ、日ごろ附循して用ひしかば、其兵勇鋭にして百戦して挫けず、秦の鋭士ともいふべきにや、中にも武田上杉などの兵は号令脩り、約束明かに、師出るに律をもてすれば、桓文の節制にも近かるべし、されば本朝の兵は、こゝに至て始て兵法をも論ずべかめり、然れども当代兵家者流と号する人、多くはかの兵律を伝るのみにて、兵法のもとは、敵を料り勝ことを制するの謀にありといふ事をしらず、其中ことに理にくらき人は、兵に荷担して、国家を治るの道も是に外ならずといふめる、
書き下し
此事を朱子兵を論ずるとていひ出で、兵はかくあるべき事なりと仰られし、語類に見えしと覺へ侍る、されば孔子も三軍を行はゞ、臨事而懼好謀而成者にくみせんとの給へり、異國の事は遠ければ姑くさし置、我朝武家の世になりしより、天下攻伐をつとめて、戰爭やむ事なかりし、建武以來宮方武家がたとて、諸國にたて分れて、日夜合戰に及しかども、いづれも諸國假合の卒をあつめて、衆の多寡をくらべ兵の强弱を爭ひ、なにの成策もなく、兩軍よせ合せて相撲角力の塲のごとく、一時に勝負を決する外はなし、或は勝時もあり或は負る時もあり、勝も負も一旦の事にて、むなしく士卒を多くころしてやみぬ、なにの兵法か論ずべき、いはゆる齊の技擊魏の勇卒ともいふべし、足利氏の季世に至て、英雄蠭起し、四方に割據して、兵を磨士を養ひ、日ごろ附循して用ひしかば、其兵勇銳にして百戰して挫けず、秦の銳士ともいふべきにや、中にも武田上杉などの兵は號令脩り、約束明かに、師出るに律をもてすれば、桓文の節制にも近かるべし、されば本朝の兵は、こゝに至て始て兵法をも論ずべかめり、然れども當代兵家者流と號する人、多くはかの兵律を傳るのみにて、兵法のもとは、敵を料り勝ことを制するの謀にありといふ事をしらず、其中ことに理にくらき人は、兵に荷擔して、國家を治るの道も是に外ならずといふめる、
現代語訳
この事を朱子が兵を論じるとして語り出し、兵はこうあるべきだとおっしゃいました。語類に見えたと覚えています。そこで孔子も、三軍を行うなら、事に臨んで懼れ、謀を好んで成す者と共にしよう、とおっしゃいました。異国のことは遠いのでしばらく置き、わが国では武家の世になってから、天下は攻め討つことに努め、戦争のやむ時がありませんでした。建武以来、宮方・武家方と諸国に分かれて日夜合戦に及びましたが、いずれも諸国から仮に集めた兵で、人数の多少を比べ兵の強弱を争い、何の策もなく、両軍が寄せ合って相撲の場のように一時に勝負を決するほかありませんでした。勝つ時もあり負ける時もあり、勝ちも負けも一時のことで、むなしく士卒を多く殺してやみました。どんな兵法を論じるべきでしょう。いわゆる斉の技撃、魏の勇卒というべきです。足利氏の末期になると英雄が蜂起し、四方に割拠して、兵を磨き士を養い、日頃から手なずけて用いたので、その兵は勇ましく鋭く、百戦しても挫けません。秦の鋭士というべきでしょうか。なかでも武田・上杉などの兵は号令が整い、約束が明らかで、軍の出動に律をもってしたので、桓公・文公の節制にも近いでしょう。そこで本朝の兵は、ここに至って初めて兵法をも論じられるようになりました。しかし当代の兵家と称する人は、多くはかの兵律を伝えるだけで、兵法のもとは敵をはかり勝ちを制する謀にあるということを知りません。その中でも特に理に暗い人は、兵にひいきして、国家を治める道もこれにほかならないと言うようです。
解説
この章句が説くこと
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