駿台雑話 / 孫臏韓信が兵法七
ながく國家に害を貽すことすくなからず、むかし蜀の先主自將として吳を攻る時、七百營を連ね、三十屯をたて、吳と相拒こと半年に及ぶ、巧而久しといふ也、つひに兵疲意沮むで、陸遜が爲に破られたり、我朝にても、近代上杉武田の兩虎爭雄しが、いづれも征法疎かなるにあらず、軍令精しからざるにあらず、然ども先爲不可勝て敵の勝べきを待事をしらず、互に一戰の間に勝ことをつとめて、しば〱相攻る事年を經てやまず、是又巧而久といふべし、遂になにの成功なくして、僅に其身を終て國滅にき、たゞ豐臣秀吉は、もとより不仁にして、誅暴止亂の兵にてはなけれども、勝敗の大數に明なりしかば、出師になにの造作もなく、行兵になにの巧計もなく、戰となれば必功を一擧に收む、遂に兵を頓て曠日することをきかず、いはゆる拙而速なるものに近し、其將略恐らくは謙信信玄の及所にあらず、然共慓輕猾賊の人にして、禮樂慈愛は夢にもしらざりし程に、晩節無名の師を起して、朝鮮を征伐し、久しく師旅を暴露し、多く人民を魚肉せしかば、天下の人心離叛きけり、亦兵久して收めざるの禍なり、孫武が一言、兵の要旨を得たりといふべし、
新字:ながく国家に害を貽すことすくなからず、むかし蜀の先主自将として呉を攻る時、七百営を連ね、三十屯をたて、呉と相拒こと半年に及ぶ、巧而久しといふ也、つひに兵疲意沮むで、陸遜が為に破られたり、我朝にても、近代上杉武田の両虎争雄しが、いづれも征法疎かなるにあらず、軍令精しからざるにあらず、然ども先為不可勝て敵の勝べきを待事をしらず、互に一戦の間に勝ことをつとめて、しば〱相攻る事年を経てやまず、是又巧而久といふべし、遂になにの成功なくして、僅に其身を終て国滅にき、たゞ豊臣秀吉は、もとより不仁にして、誅暴止乱の兵にてはなけれども、勝敗の大数に明なりしかば、出師になにの造作もなく、行兵になにの巧計もなく、戦となれば必功を一挙に収む、遂に兵を頓て曠日することをきかず、いはゆる拙而速なるものに近し、其将略恐らくは謙信信玄の及所にあらず、然共慓軽猾賊の人にして、礼楽慈愛は夢にもしらざりし程に、晩節無名の師を起して、朝鮮を征伐し、久しく師旅を暴露し、多く人民を魚肉せしかば、天下の人心離叛きけり、亦兵久して収めざるの禍なり、孫武が一言、兵の要旨を得たりといふべし、
書き下し
ながく國家に害を貽すことすくなからず、むかし蜀の先主自將として吳を攻る時、七百營を連ね、三十屯をたて、吳と相拒こと半年に及ぶ、巧而久しといふ也、つひに兵疲意沮むで、陸遜が爲に破られたり、我朝にても、近代上杉武田の兩虎爭雄しが、いづれも征法疎かなるにあらず、軍令精しからざるにあらず、然ども先爲不可勝て敵の勝べきを待事をしらず、互に一戰の間に勝ことをつとめて、しば〱相攻る事年を經てやまず、是又巧而久といふべし、遂になにの成功なくして、僅に其身を終て國滅にき、たゞ豐臣秀吉は、もとより不仁にして、誅暴止亂の兵にてはなけれども、勝敗の大數に明なりしかば、出師になにの造作もなく、行兵になにの巧計もなく、戰となれば必功を一擧に收む、遂に兵を頓て曠日することをきかず、いはゆる拙而速なるものに近し、其將略恐らくは謙信信玄の及所にあらず、然共慓輕猾賊の人にして、禮樂慈愛は夢にもしらざりし程に、晩節無名の師を起して、朝鮮を征伐し、久しく師旅を暴露し、多く人民を魚肉せしかば、天下の人心離叛きけり、亦兵久して收めざるの禍なり、孫武が一言、兵の要旨を得たりといふべし、
現代語訳
長く国家に害を残すことも少なくありません。昔、蜀の先主が自ら将として呉を攻めたとき、七百の営を連ね、三十の屯を立て、呉と半年にわたって対峙しました。巧にして久しいということです。ついに兵は疲れ意気も沮喪し、陸遜に破られました。わが国でも、近代に上杉・武田の両虎が雄を争いましたが、いずれも征法が疎かだったわけではなく、軍令が精密でなかったわけでもありません。しかし、まず勝てない態勢をつくって敵が勝てる隙を待つことを知らず、互いに一戦のうちに勝つことに努めて、しばしば攻め合い、年を経てもやみませんでした。これもまた巧にして久しというべきです。ついに何の成功もなく、わずかにその身を終えて国は滅びました。ただ豊臣秀吉は、もとより不仁で、暴を誅し乱を止める兵ではありませんでしたが、勝敗の大数に明るかったので、出兵に何の造作もなく、行軍に何の巧計もなく、戦となれば必ず功を一挙に収めました。ついに兵を留めて日を空しくしたとは聞きません。いわゆる拙にして速に近いものです。その将略はおそらく謙信・信玄の及ぶところではありません。しかし、すばしこく軽はずみで狡猾な人で、礼楽や慈愛は夢にも知らなかったので、晩年に名分のない軍を起こして朝鮮を征伐し、長く軍勢を野にさらし、多くの人民を魚肉のように殺したため、天下の人心は離れ背きました。これもまた兵が長引いて収まらない禍です。孫武のひと言は、兵の要旨を得ているというべきです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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言志四録・言志録 第百八十一条 勢に因りて利導す人情の気機は、一定を以て求むべからず。之を誘へば勧み、之を禁ずれば遏む、順なり。之を導けば反つて阻み、之を抑ふれば益揚る、逆なり。是の故に駕馭の道は、当に其の向背を察し、其の軽重を審らかにし、勢に因りて之を利導し、機に応じて之を激励し、其をして自ら其の然る所以を覚えざらしむべし。此れを之れ得たりと為す。
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史記 高祖本紀且つ吾の軍を霸上に還す所以は、諸侯の至るを待ちて約束を定めんのみ。」と。乃ち人をして秦の吏と県郷邑を行かしめ、之に告諭す。秦人大いに喜び、争ひて牛羊酒食を持ちて軍士に献饗す。沛公又譲りて受けず、曰く、「倉粟多し、乏しきに非ず、人に費さしむるを欲せず。」と。人又益々喜び、唯だ沛公の秦王と為らざらんことを恐る。
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『弁道』第二十四則「之を継ぐ者は善」とは、天を継ぐの継の如し。善とは善人を謂ふなり。流行と訓ずる者は継の字の義を失へり。「之を成す者は性」とは、人各〻性の近き所に随ひて務めを成すを謂ふなり。凡そ徳と言ふ者、怨に対して言ふ者有り、財に対して言ふ者有り。其の単に言ふ者は、皆性の徳なり。爾らずんば、「徳に拠る」、何ぞ其れ荒唐なるや。人心とは民心なり。朽索の馭の如し。故に危ふしと曰ふ。道心とは民心を導くなり。其の機甚だ微なり。故に微なりと曰ふ。
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『呻吟語』内篇・應務・一の拙法有り世人の相與するは、面上に非ざれば則ち口中なり。人の心は固より面と口とに掩ふ能はず。而して測る可からざる者は則ち面と口とに盡きざるなり。故に惟だ人心のみ最も畏る可く、人心最も知る可からず。此れ天下の陷阱にして、古今生死の衢なり。余に一の拙法有り。之を推すに至誠を以てし、之を施すに至厚を以てし、之を持するに至慎を以てし、是非を遠ざけ、利名を讓り、後下に處せば、則ち夷狄鳥獸も骨肉腹心とす可し。將に深き者をして且つ心を傾けしめ、險なる者をして且つ德に化せしめんとす。而して何ぞ陷阱の予に及ばんや。
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『晏子春秋』外篇上・景公坐路寢曰誰將有此晏子諫景公路寝に坐して、曰く、「美なるかな室、其れ誰か将に此を有たんとするか」と。晏子対えて曰く、「其れ田氏か。田無宇は垾を為せり」と。公曰く、「然らば則ち奈何」と。晏子対えて曰く、「善を為す者は、君上の勧むる所なり。豈に禁ず可けんや。夫れ田氏は、国門に柝を撃つの家にして、父は以て其の子に托し、兄は以て其の弟に托し、今に於て三世なり。山の木は市の如くにして、山に加えず。魚塩蚌蜃は、海に加えず。民財之が為に帰す。今歳凶饑にして、蒿種芼斂は半ばならず、道路に死人有り。斉の旧四量は、四升を豆と為し、豆四にして区、区四にして釜、釜十にして鐘なり。田氏の四量は、各々一を加う。家の量を以て貸し、公の量を以て収む。則ち糴する所以、百姓の死命を澤うこと多し。今公家は驕汰にして、田氏は慈恵なり。国の澤は是に焉くにか帰せん。田氏は徳無しと雖も、民に施す有り。公厚く斂め、田氏は厚く施す。詩に曰く、『汝に与うる徳無しと雖も、式て歌い且つ舞う』と。田氏の施しは、民之を歌舞するなり。国の帰するも、亦た宜ならずや」と。
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『洗心洞箚記』卷下・第七十九條或ひと梁恵王曰く寡人の国に於けるやの章の義を問ふ。曰く、恵王の尽心と、後章の其の心を尽くす者は其の性を知るなりの尽心とは、字同じくして旨異なり。如し先づ之を弁ぜずして、一章の義を解すれば、則ち無数の言語を費して、天理人欲、終に分暁なること能はざるなり。夫れ恵王の尽心は、即ち人心を尽くす者なり。人心は、便ち是れ人欲にして不仁なり。恵王の戦を好むの心は、乃ち人欲の中尤も不仁なる者なり。人欲の中尤も不仁なるの心を尽くして、飢民を転遷し以て其の多少を計較す。要するに一身を肥やして独楽を極めんと欲する者なり。盗賊の心と奚を以て異ならんや。是の故に終に其の民を糜爛し子弟を駆りて以て之に殉ぜしむ。是れ皆自ら人心を尽くす上より来る。然らば則ち人心を尽くすは、断絶せざるべからざるなり。
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