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駿台雑話 / 武運の稽古三

翁が武運の稽古といふは、是を申すにてこそ侍れ、老人の僻言と聞給ふべからず、たゞなげかしきは、世俗の有さまなり、專らに身を利して人をそねみ、偏に智を恃て詐を飾る、自から是を世を渡るよき計こそおもらめど、終には天に見捨られぬべし、人として天に見捨られなば、いかでかよき事のあるべき、翁わかき時より世に時めく士大夫の邸宅を過て見るに、三つ葉四つ葉に作りならべたるに、歳々に諸寺諸山より捧げすゝめける武運長久といふ牌を門に釘せぬはなし、然るに其家或は刑戮せられ、或は子孫斷絕して、武運長久の牌は其まゝ門にありながら、主うせ家滅びて、跡方もなく成行もあまた有にて侍る、又それ程にこそ侍らね、身を辱しめ名をおとして、晩節を保ざるもいくばく人ぞ、是等は皆武運の稽古なき故にこそとおしはからるれ、日ごろ稽古なくして、祈禱厭勝の力にて、武運を守らむとおもふ事、至ておろかなりといふべし、孔子も獲罪於天無所禱也とこその給へれ、凡神にこび佛に諂ひ、符章陀羅尼やうの事を信ずる、婦女などのするはいかゞせん、丈夫たる者の有べき事にはあらず、然るに近世士大夫より上つかた民の師表たる人も、こゝに惑はざるはすくなし、されば左道の民間に行はれてはてしなきも是誰が過ぞやとて、翁毛詩の瞻烏爰止于誰之屋といふを打吟じて、慨嘆におよびしがいかなる心にかありけん、

新字:翁が武運の稽古といふは、是を申すにてこそ侍れ、老人の僻言と聞給ふべからず、たゞなげかしきは、世俗の有さまなり、専らに身を利して人をそねみ、偏に智を恃て詐を飾る、自から是を世を渡るよき計こそおもらめど、終には天に見捨られぬべし、人として天に見捨られなば、いかでかよき事のあるべき、翁わかき時より世に時めく士大夫の邸宅を過て見るに、三つ葉四つ葉に作りならべたるに、歳々に諸寺諸山より捧げすゝめける武運長久といふ牌を門に釘せぬはなし、然るに其家或は刑戮せられ、或は子孫断絶して、武運長久の牌は其まゝ門にありながら、主うせ家滅びて、跡方もなく成行もあまた有にて侍る、又それ程にこそ侍らね、身を辱しめ名をおとして、晩節を保ざるもいくばく人ぞ、是等は皆武運の稽古なき故にこそとおしはからるれ、日ごろ稽古なくして、祈祷厭勝の力にて、武運を守らむとおもふ事、至ておろかなりといふべし、孔子も獲罪於天無所祷也とこその給へれ、凡神にこび仏に諂ひ、符章陀羅尼やうの事を信ずる、婦女などのするはいかゞせん、丈夫たる者の有べき事にはあらず、然るに近世士大夫より上つかた民の師表たる人も、こゝに惑はざるはすくなし、されば左道の民間に行はれてはてしなきも是誰が過ぞやとて、翁毛詩の瞻烏爰止于誰之屋といふを打吟じて、慨嘆におよびしがいかなる心にかありけん、

書き下し

翁が武運の稽古といふは、是を申すにてこそ侍れ、老人の僻言と聞給ふべからず、たゞなげかしきは、世俗の有さまなり、專らに身を利して人をそねみ、偏に智を恃て詐を飾る、自から是を世を渡るよき計こそおもらめど、終には天に見捨られぬべし、人として天に見捨られなば、いかでかよき事のあるべき、翁わかき時より世に時めく士大夫の邸宅を過て見るに、三つ葉四つ葉に作りならべたるに、歳々に諸寺諸山より捧げすゝめける武運長久といふ牌を門に釘せぬはなし、然るに其家或は刑戮せられ、或は子孫斷絕して、武運長久の牌は其まゝ門にありながら、主うせ家滅びて、跡方もなく成行もあまた有にて侍る、又それ程にこそ侍らね、身を辱しめ名をおとして、晩節を保ざるもいくばく人ぞ、是等は皆武運の稽古なき故にこそとおしはからるれ、日ごろ稽古なくして、祈禱厭勝の力にて、武運を守らむとおもふ事、至ておろかなりといふべし、孔子も獲罪於天無所禱也とこその給へれ、凡神にこび佛に諂ひ、符章陀羅尼やうの事を信ずる、婦女などのするはいかゞせん、丈夫たる者の有べき事にはあらず、然るに近世士大夫より上つかた民の師表たる人も、こゝに惑はざるはすくなし、されば左道の民間に行はれてはてしなきも是誰が過ぞやとて、翁毛詩の瞻烏爰止于誰之屋といふを打吟じて、慨嘆におよびしがいかなる心にかありけん、

現代語訳

私が武運の稽古というのは、このことを申すのです。老人の僻言と聞かれてはなりません。ただ嘆かわしいのは、世間のありさまです。もっぱら我が身の利を図って人を妬み、ひとえに智を頼んで偽りを飾ります。自分ではこれをよい世渡りの計と思っているのでしょうが、ついには天に見捨てられるでしょう。人として天に見捨てられたら、どうしてよいことがありましょうか。私は若いときから、世に時めく士大夫の邸宅の前を通って見ると、三つ葉・四つ葉のように立派に作り並べた家々の門に、毎年あちらこちらの寺や山から捧げ勧められる「武運長久」という牌を、釘で打たないところはありません。ところが、その家はあるいは刑に処せられ、あるいは子孫が絶えて、武運長久の牌はそのまま門にありながら、主は失せ家は滅びて跡形もなくなるものも多くあります。またそれほどではなくても、身を辱め、名を落として、晩節を保てなかった者も、どれほどいることでしょう。これらはみな、武運の稽古がなかったためと推し量られます。日ごろの稽古がなくて、祈禱や厭勝の力で武運を守ろうと思うのは、至って愚かなことと言うべきです。孔子も「罪を天に得れば、祈るところがない」とおっしゃっています。およそ神にこび仏にへつらい、符章や陀羅尼のようなものを信じることは、婦女などがするのはともかく、丈夫たる者のあるべきことではありません。ところが近ごろは、士大夫から上の、民の師表となるべき人でも、これに惑わされない者は少ないのです。ですから、左道が民間に行われて果てしないのも、これは誰の過ちかと、私は毛詩の「烏を見れば、ここに止まる、誰の屋にか」という句を口ずさんで、嘆きました。それがどういう心であったのかは分かりません。

解説

武運の稽古とは、仁と信を平生に積むことだと翁がまとめる段です。世俗は我が身の利を図り、人を妬み、智に頼って偽りを飾りがちだと嘆きます。翁は若い頃から、門に武運長久の牌を打ちながら、刑に処され、子孫が絶えた家を数多く見てきたと述べ、祈禱や厭勝に頼るのは愚かだとします。孔子の「獲罪於天無所禱也」と、毛詩の「瞻烏爰止于誰之屋」の句を引いて慨嘆しますが、その句に込めた心は本文では明言されていません。お守りのような形式で組織の運を守ろうとする発想への、現代にも通じる戒めと読めます。日ごろの行いがなければ、どんな儀式も支えにならないのです。

この章句が説くこと

武運長久祈祷左道天師表駿台雑話

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