慎思録 / 巻之六
盧子諒曰。福爲禍始。禍爲福階。葢倚伏之理。知者之所豫知。愚者之所不畏也。或曰。天子祭天地。雖諸侯不得祭之。畏僭踰也。然則如衆人。唯事君父而足矣。古人言事天。恐似僭越。奈何。諸侯以下祭天地。則非也。事天地者。與祭祀天地不同。如畏敬其威而不侮。奉若其道而不背。愛育人物而不暴。仰思其恩而不忘也。是事天之道也。雖賤民。亦所以可終身事之也。
新字:盧子諒曰。福為禍始。禍為福階。葢倚伏之理。知者之所予知。愚者之所不畏也。或曰。天子祭天地。雖諸侯不得祭之。畏僭踰也。然則如衆人。唯事君父而足矣。古人言事天。恐似僭越。奈何。諸侯以下祭天地。則非也。事天地者。与祭祀天地不同。如畏敬其威而不侮。奉若其道而不背。愛育人物而不暴。仰思其恩而不忘也。是事天之道也。雖賤民。亦所以可終身事之也。
書き下し
盧子諒曰く、福は禍の始め為り、禍は福の階為りと。蓋し倚伏の理は、知者の予め知る所にして、愚者の畏れざる所なり。或ひと曰く、天子は天地を祭る。諸侯と雖も之を祭ることを得ず。僭踰を畏るればなり。然らば則ち衆人の如きは、唯だ君父に事ふれば足れり。古人天に事ふと言ふは、恐らくは僭越に似たり、奈何と。諸侯以下天地を祭るは、則ち非なり。天地に事ふるは、天地を祭祀すると同じからず。其の威を畏敬して侮らず、其の道を奉若して背かず、人物を愛育して暴せず、其の恩を仰ぎ思ひて忘れざるが如き、是れ天に事ふるの道なり。賤民と雖も、亦終身之に事ふべき所以なり。
現代語訳
盧子諒は「福は禍の始まりであり、禍は福への階段である」と言いました。思うに、禍福が互いに寄りかかり潜む道理は、賢い者があらかじめ知り、愚かな者が畏れないものです。ある人が言いました。「天子は天地を祭り、諸侯でさえ祭ることはできません。分を越えることを畏れるからです。そうだとすれば一般の人は、ただ主君と父に仕えれば十分です。古人が天に仕えると言うのは、分を越えているように思えますが、どうでしょうか」。諸侯以下が天地を祭るのは誤りです。しかし天地に仕えることは、天地を祭ることとは違います。天の威を畏れ敬って侮らず、天の道に従って背かず、人や物を愛し育てて損なわず、天の恩を仰ぎ思って忘れない。これが天に仕える道です。身分の低い民であっても、一生これに仕えることができるのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之六天、異を垂れ、地、妖を吐き、人、病疫す。此の三者、苟も此に一有らば、国家に長たるの人、当に小心にして天の威を畏れ慎むべき所なり。故に天威を畏るる者は、此れ其の国家を保つ所以なり。王荊公の以て天変畏るるに足らずと為す者は、不敬の甚だしきなり。此の一言にして以て邦を喪ふべきなり。
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『墨子』尚同中夫れ既に天子に尚同するも、未だ天に尚同せざる者は、則ち天菑、將に猶お未だ止まざらんとするなり。故に若し天、寒熱を降すこと節ならず、霜雪雨露、時ならず、五榖熟せず六畜遂げず、疾菑戾疫、飄風苦雨、荐臻して至る者は、此れ天の罰を降すなり。將に以て下人の天に尚同せざるを罰せんとするなり。
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『後世への最大遺物』第二回・一俵の米は百万の価値があったこうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにして、その一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだん続けまして、二十歳のときに伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であります。それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に、天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだから、もしわれわれがこの身を天と地とに委ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」という、こういう考えであります。
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『呻吟語』内篇・修身・天と人と我吉凶禍福は是れ天の主張、毀譽予奪は是れ人の主張、立身行己は是れ我の主張なり。此の三つの者は、相奪はざるなり。
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『墨子』尚同上天下の百姓、皆な天に上同するも、一にして天に上同せざれば、則ち菑、猶お未だ去らざるなり。今、若し天、飄風苦雨、湊湊として至る者は、此れ天の百姓の天に上同せざるを罰する所以の者なり。
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