素書 / 『素書』時を待つ賢人の構え
賢人君子明于盛衰之道、通乎成敗之數、審乎治亂之勢、達乎去就之理、故潛居抱道、以待其時。若時至而行、則能極人臣之位;得機而動、則能成絕代之功。如其不遇、沒身而已。是以其道足高、而名重于后代。右第一章、言道不可以無始。
新字:賢人君子明于盛衰之道、通乎成敗之数、審乎治乱之勢、達乎去就之理、故潜居抱道、以待其時。若時至而行、則能極人臣之位;得機而動、則能成絶代之功。如其不遇、没身而已。是以其道足高、而名重于后代。右第一章、言道不可以無始。
書き下し
賢人君子は盛衰の道に明らかに、成敗の数に通じ、治乱の勢いを審らかにし、去就の理に達す。故に潜み居りて道を抱き、以て其の時を待つ。若し時至りて行わば、則ち能く人臣の位を極め、機を得て動かば、則ち能く絶代の功を成す。如し其れ遇わざれば、身を没するのみ。是を以て其の道足りて高く、名后代に重し。右第一章、道は以て始め無かる可からざるを言う。
現代語訳
賢人君子は、栄えと衰えの道筋に明るく、成功と失敗の巡りに通じ、世が治まる乱れるの勢いを見極め、身を退くか進むかの理にも行き届いています。だから、ひそかに身を置いて道を抱き、その時を待ちます。もし時が来て動けば、臣下として最高の位にも至り、好機をつかんで動けば、またとない功績を成し遂げます。もしも時に恵まれなければ、そのまま生涯を終えるだけです。それでも、その人の道は十分に高く、名は後の世まで重んじられます。以上が第一章で、道は始めに欠かせないものだという意味です。
解説
第一章の本文で、力を蓄えて時を待つ姿勢を語ります。状況を読む四つの目、すなわち盛衰、成敗、治乱、去就が並び、読んだうえで動く時を選ぶ点が要です。時が来なければ生涯を終えるだけだと、結果の保証がないことも隠していません。そのうえで道の高さが名を残すと述べます。ここは成立当時の君臣関係を前提にした言葉ですが、現代なら、実力を磨きつつ機会を見極める姿勢に読めます。焦って動いて消耗するより、準備を厚くして好機に備える。管理職の異動や新規事業の局面にも通じます。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
盛衰成敗治乱去就潜居時を待つ
関連する章句
-
『童子問』卷上問ふ、易知易行・万世不易の理の、実に至極為ることは、既に命を聞くことを得たり。然れども心中猶ほ未だ釈然たること能はず。願はくは易く暁りやすきの語を以て、申ねて諭を垂れよと。曰く、人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行ふ、何の難知難行か之れ有らん。夫れ人の霊を以てすと雖も、然れども羽ある者の翔り、鱗ある者の潜るが若くなること能はざる者は、其の性異なればなり。堯の服を服し、堯の行ひを行ひ、堯の言を誦するに於ては、則ち復た甚だ難き者無し。其の道同じければなり。故に孟子曰く、夫れ道は一のみと。若し夫れ人倫を外にして道を求むる者は、猶ほ風を捕へ影を捉ふるがごとく、必ず得べからざるなり。故に道を知る者は、必ず之を邇きに求む。其の道を以て高しと為し、遠しと為し、企て及ぶべからずと為す者は、皆道の本然に非ず、自ら惑ふの致す所なり。
-
『弁名』理氣人欲包犠氏網罟を為る、蓋し諸を離に取る、神農氏耒耜を為る、蓋し諸を益に取るが如し。易は本と象を取りて器を作るの義有り。故に爾か云ふ。形而上は、器未だ形を成さざる以前、唯だ易の道有るのみを謂ふ。其の形を成すの後に至りて、始めて其の器有り。皆器を制するを主として之を言ふ。下文遂に曰く、「化して之を裁する、之を変と謂ふ。推して之を行ふ、之を通と謂ふ。挙げて之を天下の民に措く、之を事業と謂ふ」と。是れ皆易を賛するの言なり。道器変通事業は、皆易を以て之を言ふのみ。上章に「戸を闔づる之を坤と謂ひ、戸を闢く之を乾と謂ふ。一たび闔ぢ一たび闢く之を変と謂ひ、往来窮まらざる之を通と謂ふ。見はるる乃ち之を象と謂ひ、形はるる乃ち之を器と謂ふ。制して之を用ふる之を法と謂ひ、利用出入して民咸之を用ふる之を神と謂ふ」と曰ふが如きも、是れ又た道器を以て対言せず。其の義以て見るべきのみ。豈に大謬に非ずや。
-
『慎思録』巻之四術者の陋なり。陰陽を指して道と為すは、猶ほ天地を指して道と為し、聖人を指して道と為すがごとし。此れ道の在る所を以て言ふ。其の実、天地陰陽は即ち是れ道の存する所にして、還た是れ道中に在る所の物なり。蓋し道を以て主と為して之を言へば、則ち天地万物は皆是れ道中の物なり。天地万物を以て主と為して之を言へば、則ち道は天地万物の中に在りて、之が主為る者なり。陰陽の如きは、則ち又天地万物の比に非ず。同異離合を以て之を言ふべからず。故に易に陰陽を以て道を言ふは、此を以てなり。
-
『弁名』理氣人欲仁斎先生曰く、「道は行ふ所を以て言ふ、活字なり。理は存する所を以て言ふ、死字なり。聖人は道を見ること実なり、故に其の理を説くや活なり。老氏は道を見ること虚なり、故に其の理を説くや死なり」と。又た曰く、「道は本と活字、其の生生化化の妙を形容する所以なり。理の字の若きは本と死字、玉に従ひ里に従ふ、玉石の文理を謂ふ。以て事物の条理を形容すべくして、以て天地生生化化の妙を形容するに足らず」と。此等の議論、皆痴人の夢を説くが如し。
-
『弁名』道小人の道長ずと曰ひ、戎狄の道と曰ふ者有り。皆其の由る所を以て俗を成し、自ら一道有るに似たり。故に之を言ふ。善人の道と曰ひ、父の道を改むること無しと曰ふ者有り。亦た其の由る所を言ふのみ。必ずしも先王の道ならず。凡そ其の意此を以て道と為して之に由る者なり。是の道や何ぞ以て臧しとするに足らんと曰ふ者有り。詩書礼楽は、皆先王の道なり。故に一言半句と雖も亦た称して道と為すのみ。
-
『慎思録』巻之三聖人の道は、本自ら分明なり。故に夫婦の愚も、以て与り知るべし。本自ら簡易なり。故に夫婦の不肖も、以て能く行ふべし。然れども世に之を知り之を行ふ者鮮きは、何ぞや。蓋し教無く習無きに因るなり。