弁名 / 理氣人欲
仁齋先生曰。道以所行言。活字也。理以所存言。死字也。聖人見道也實。故其說理也活。老氏見道也虛。故其說理也死。又曰。道本活字。所以形容其生生化化之妙也。若理字本死字。從玉從里。謂玉石之文理。可以形容事物之條理。而不足以形容天地生生化化之妙也。此等議論。皆如痴人說夢。
新字:仁斎先生曰。道以所行言。活字也。理以所存言。死字也。聖人見道也実。故其説理也活。老氏見道也虚。故其説理也死。又曰。道本活字。所以形容其生生化化之妙也。若理字本死字。従玉従里。謂玉石之文理。可以形容事物之条理。而不足以形容天地生生化化之妙也。此等議論。皆如痴人説夢。
書き下し
仁斎先生曰く、「道は行ふ所を以て言ふ、活字なり。理は存する所を以て言ふ、死字なり。聖人は道を見ること実なり、故に其の理を説くや活なり。老氏は道を見ること虚なり、故に其の理を説くや死なり」と。又た曰く、「道は本と活字、其の生生化化の妙を形容する所以なり。理の字の若きは本と死字、玉に従ひ里に従ふ、玉石の文理を謂ふ。以て事物の条理を形容すべくして、以て天地生生化化の妙を形容するに足らず」と。此等の議論、皆痴人の夢を説くが如し。
現代語訳
仁斎先生は「道は行うことについて言うので、生きた字である。理はそこにあることについて言うので、死んだ字である。聖人は道を見ることが実であるから、理を説いても生きている。老子は道を見ることが虚であるから、理を説いても死んでいる」と言った。また「道はもともと生きた字で、天地が生じ変化してやまない妙を形容するものである。理の字はもともと死んだ字で、玉に従い里に従い、玉石の筋目を言う。物事の筋道を形容することはできても、天地が生じ変化してやまない妙を形容するには足りない」と言った。こうした議論は、みな愚か者が夢を語るようなものである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『弁名』道其の解に曰く、「道は当に行ふべきの理なり」と。是の言や以て道を賛すれば則ち猶ほ之れ可なり。然れども亦た僅かに以て人に道を行ふを勧むるに足るの言のみ。道に由れば則ち坦然たり、道に由らざれば則ち蓁棘を冒し険巇を踏む。蓋し焉に由らんか。是れ何ぞ以て道を尽くすに足らんや。若し当に行ふべきの理を其の臆に取りて、是れ聖人の道なりと謂はば、則ち妄の甚だしき者なり。果たして其の言の是ならば、孔子奚ぞ学ばん。彼の其の聖人の智を以てすれば、何の知らざる所かあらん。亦た思はざるの甚だしきなり。
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『童子問』卷中問ふ、吾之を朱子に聞く。曰く、理に於て所以然と所当然との異有り。所以然とは、即ち所当然の本、而して所当然とは、便ち所以然の発なり。故に曰く、陰陽は自ら形よりして下の器なり、太極は自ら形よりして上の道なりと。今先生の説く所は、皆所当然の事にして、其の所以然の本に於ては、則ち未だ之に及ばず。用有りて体無し。恐らくは浅近に過ぐること無きを得んや。曰く、所謂所以然の理とは、人の人為る所以、物の物為る所以、陰陽の往来消長する所以の理を謂ふに非ずや。夫れ陰陽は固より道に非ず。一陰一陽往来して已まざる者、即ち是れ道なり。陰陽往来して、天道成る。剛柔相済して、地道成る。仁義相須ちて、人道成る。天の道は、陰陽に尽き、地の道は、剛柔に尽き、人の道は、仁義に尽く。故に易に曰く、一陰一陽、之を道と謂ふと。又曰く、大いなるかな乾元、万物資りて始む、乃ち天を統ぶ。至れるかな坤元、万物資りて生ず、乃ち順ひて天を承くと。古先聖人の天道を論ずる所以の者、此に至りて極まり、更に此の上面に於て復た一語を加へず。所謂太極と云ふ者も、亦此の一元気を斥して言ふのみ。若し此の上面に於て、其の所以然の理を求むれば、則ち是れ向に所謂無物の地に就きて物を求むるに非ずや。故に後世の所謂無極太極の理は、畢竟天地本無の理にして、聖人の言はざる所なり。之を袪けて可なり。
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『弁名』理氣人欲夫れ道は聖人の立つる所、豈に道を見るを以て言ふを容れんや。又た豈に老氏と対言するを容れんや。夫れ道は民を安んずる所以なり。又た豈に生生化化を以て言ふを容れんや。理の玉に従ひ里に従ふは、亦た倉頡字を制する時、且く此を以て記憶に便するのみ。豈に泥むを容れんや。且つ道も亦た諸を道路に本づく。豈に死活有らんや。祇だ道は之を行ふを主とし、理は之を見るを主とす。老荘及び宋儒は皆其の見る所を主とす。故に喜んで理を言ふのみ。若し死活を以て説を為さば、則ち老荘も亦た道徳を言ふ、其れ之を何と謂はん。之を要するに理豈に廃するを容れんや。苟も聖人の教に遵ひ、礼義を以て之が極と為せば、則ち理豈に以て病と為すに足らんや。仁斎先生は羹に懲りて韲を吹くと謂ふべきのみ。学者諸を思へ。
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『慎思録』巻之五天地の間、道に非ざる無し。鳶の飛び、魚の躍る者は、乃ち天機の発動する所、道の費なり。此れ見るべし。鳶をして飛ばしめ、魚をして躍らしむる者は、鬼神の為す所、是れ二気の良能、道の隠なり。此れ見るべからず。合せて之を言へば、則ち二気の流行する所、皆是れ天理の在る所にして、道に非ざる無し。
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『慎思録』巻之四理と気とは一にして二、二にして一なり。同じくして異なりと謂ふべし。故に善く理を観る者は、陰陽に就きて之を言ひて、其の理を失はず。理を以て主と為すに由るなり。気は是れ理の運用、理は是れ気の本主なり。易に曰く、一陰一陽、之を道と謂ふ、と。又曰く、天の道を立つ、曰く陰と陽と、と。是れ気に就きて道を見るなり。道と陰陽とは決して是れ二物に非ざることを見るべし。混同して間無きなり。其の混同して間無きの中に、至理有りて之を主宰す。如し或いは陰陽を離れて道を言ひ、或いは陰陽を主として道を言ふ者は、道を知る者に非ざるなり。陰陽を離れて道を言ふ者は、風を係ぎ影を捕ふるが如し。此れ異学空虚の説なり。其の言は妄誕為り。陰陽を主として道を言ふ者は、糟粕を甘しとして醍醐を舎つるが如し。是れ方技術数の説なり。其の言は鄙陋為り。皆此れ道の至理にして陰陽の主為ることを知らざるなり。苟も此の意を理会せば、則ち陰陽を合して道と為すも、固より可なり。陰陽を以て器と為すも、亦た可なり。故に明道曰く、器も亦た道、道も亦た器、と。苟も陰陽を離れて道と為さば則ち不可なり。蓋し理無きの気無く、気無きの理無きに由るなり。
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『慎思録』巻之四道と理とは一なり。天人の道、二有るに非ずと雖も、然れども其の流行を以て之を道と謂ふ者は、天の道なり。其の性に率ふを以て之を道と謂ふ者は、人の道なり。其の条貫を以て之を理と謂ふ者は、天人に通じて言ふ。易に窮理と謂ひ、孟子に理義と謂ひ、礼記に天理と謂ふが如き、是れなり。其の気と相対して形象無き者を以て、故に宋儒専ら理の字を説きて、気と対了す。近世異学の輩出でて、以謂へらく、只だ之を道と謂ふべし、之を理と謂ふべからず、と。此れ亦た固陋の甚だしき、時変に通ぜざる者なり。豈に古来聖賢の説、時に順ひて宜しきを異にすることを知らんや。堯舜の盛世の如きは、未だ幾許の議論有らず。唯だ一の中の字を言ひて足る。後世に至りて時を歴ること愈久しくして、議論愈詳らかなり。宋儒に到りて専ら理の字を説くも、亦た何の害か之有らん。
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