弁名 / 道
有曰小人道長曰戎狄之道者。皆以其所由成俗。自似有一道。故言之。有曰善人之道。曰無改於父之道者。亦言其所由耳。不必先王之道。凡其意以此爲道而由之者也。有曰是道也何足以臧者。詩書禮樂。皆先王之道也。故雖一言半句亦稱爲道耳。
新字:有曰小人道長曰戎狄之道者。皆以其所由成俗。自似有一道。故言之。有曰善人之道。曰無改於父之道者。亦言其所由耳。不必先王之道。凡其意以此為道而由之者也。有曰是道也何足以臧者。詩書礼楽。皆先王之道也。故雖一言半句亦称為道耳。
書き下し
小人の道長ずと曰ひ、戎狄の道と曰ふ者有り。皆其の由る所を以て俗を成し、自ら一道有るに似たり。故に之を言ふ。善人の道と曰ひ、父の道を改むること無しと曰ふ者有り。亦た其の由る所を言ふのみ。必ずしも先王の道ならず。凡そ其の意此を以て道と為して之に由る者なり。是の道や何ぞ以て臧しとするに足らんと曰ふ者有り。詩書礼楽は、皆先王の道なり。故に一言半句と雖も亦た称して道と為すのみ。
現代語訳
「小人の道が伸びる」「戎狄(異民族)の道」という言い方がある。いずれも、その人々が拠って進むものによって風俗ができ、おのずから一つの道があるように見えるから、そう言うのである。「善人の道」「父の道を改めることがない」という言い方もある。これもその人が拠って進むものを言っただけで、必ずしも先王の道ではない。およそ、本人がこれを道と思ってそれに拠っているものである。「この道がどうしてよいと言えようか」という言い方もある。詩・書・礼・楽はみな先王の道であるから、たとえ一言半句でも道と称するのである。
解説
ここで徂徠は、経書に見える「道」の派生的な用法を整理する。小人や異民族にも、その集団が拠って歩む習わしがあれば「道」と呼ばれ、善人や父の道も、その人が拠ってきたやり方を指すにすぎない。また詩書礼楽は先王の道そのものなので、その一句でも道と呼ばれる。語の中心義と周辺の用法を分けておけば、どの「道」も同じ深い理として読む朱子学的な読み込みを避けられる。会議で「うちのやり方」という言葉が出たら、それが全社の原則なのか、一部署の習慣なのかを確かめるだけで議論はずっと整理される。
この章句が説くこと
道風俗先王詩書用例習慣
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