徂徠先生答問書 / 卷下
詩經の取捌、宋儒の誤の大成處可申進候。詩勸善懲惡の爲と申事、是大き成誤に候。誠に勸善懲惡の爲と思召候はゞ、今少よき仕形外にも可有之候。詩にて勸善懲惡の敎を施すといふ事さりとては聞え不申事に候。古聖人の智にて、左樣のつまり不申事可有之候樣無御座候。詩經は淫奔の詩多く有之候。朱註には惡を懲しむる爲と有之候へ共、却て淫を導く爲に成可申候。是等の所とくと御了簡可被成候。詩經は曾て夢にも濟不被申と相見申候。論語に不學詩無以言と有之、學詩三百使四方不能專對と有之候。是詩專言語の敎にて御座候。洞に人性に通達する事、詩經の敎にて人性に通達不申候へば、物申事は成不申物に候。宋儒は理非邪正の見にからめられ被居候故、論語聖言に詩經の事有之候には從不被申、是非邪正の見より見候故、勸懲の爲と見被申候事に候。是等の所、詩經御覽被成候大段の意得に候故申進候。詩經の詩も、後世の詩も全く替目無之候。詩經は只詩と御覽被成候が能御座候。
新字:詩経の取捌、宋儒の誤の大成処可申進候。詩勧善懲悪の為と申事、是大き成誤に候。誠に勧善懲悪の為と思召候はゞ、今少よき仕形外にも可有之候。詩にて勧善懲悪の教を施すといふ事さりとては聞え不申事に候。古聖人の智にて、左様のつまり不申事可有之候様無御座候。詩経は淫奔の詩多く有之候。朱註には悪を懲しむる為と有之候へ共、却て淫を導く為に成可申候。是等の所とくと御了簡可被成候。詩経は曽て夢にも済不被申と相見申候。論語に不学詩無以言と有之、学詩三百使四方不能専対と有之候。是詩専言語の教にて御座候。洞に人性に通達する事、詩経の教にて人性に通達不申候へば、物申事は成不申物に候。宋儒は理非邪正の見にからめられ被居候故、論語聖言に詩経の事有之候には従不被申、是非邪正の見より見候故、勧懲の為と見被申候事に候。是等の所、詩経御覧被成候大段の意得に候故申進候。詩経の詩も、後世の詩も全く替目無之候。詩経は只詩と御覧被成候が能御座候。
書き下し
詩経の取捌、宋儒の誤の大成処可申進候。詩勧善懲悪の為と申事、是大き成誤に候。誠に勧善懲悪の為と思召候はゞ、今少よき仕形外にも可有之候。詩にて勧善懲悪の教を施すといふ事さりとては聞え不申事に候。古聖人の智にて、左様のつまり不申事可有之候様無御座候。詩経は淫奔の詩多く有之候。朱註には悪を懲しむる為と有之候へ共、却て淫を導く為に成可申候。是等の所とくと御了簡可被成候。詩経は曽て夢にも済不被申と相見申候。論語に不学詩無以言と有之、学詩三百使四方不能専対と有之候。是詩専言語の教にて御座候。洞に人性に通達する事、詩経の教にて人性に通達不申候へば、物申事は成不申物に候。宋儒は理非邪正の見にからめられ被居候故、論語聖言に詩経の事有之候には従不被申、是非邪正の見より見候故、勧懲の為と見被申候事に候。是等の所、詩経御覧被成候大段の意得に候故申進候。詩経の詩も、後世の詩も全く替目無之候。詩経は只詩と御覧被成候が能御座候。
現代語訳
『詩経』の扱いについて、宋儒の誤りの大きなところを申し上げましょう。詩が勧善懲悪のためだというのは大きな誤りです。本当に勧善懲悪のためとお考えなら、もう少しよいやり方が他にもあるでしょう。詩で勧善懲悪の教えを施すというのは、どうにも筋が通りません。古の聖人の知恵で、そのような筋の通らないことがあるはずはありません。『詩経』には淫らな恋の詩が多くあります。朱注には悪を懲らしめるためとありますが、かえって淫らさに導くためになってしまうでしょう。このあたりをよくお考えください。(宋儒には)『詩経』は夢にも理解できていないと見えます。『論語』に「詩を学ばざれば以て言ふこと無し」とあり、「詩三百を誦するも、四方に使ひして専対すること能はず」とあります。これは詩がもっぱら言語の教えだということです。深く人の性情に通じることが『詩経』の教えであって、人情に通じていなければ、ものを言うことはできないものです。宋儒は理非・邪正の見方に縛られているので、『論語』の聖人の言葉に『詩経』のことがあってもそれに従わず、是非・邪正の見方から見るので、勧懲のためと見るのです。これらは『詩経』をご覧になる際の大事な心得なので申し上げます。『詩経』の詩も、後世の詩もまったく変わりはありません。『詩経』はただ詩としてご覧になるのがよいでしょう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孔子家語・論禮子夏、孔子に侍坐して曰わく、「敢えて問う、詩に云う、『愷悌の君子は、民の父母』と。何如なれば斯れ民の父母と謂うべきか。」孔子曰わく、「夫れ民の父母は、必ず礼楽の源に達し、以て五至を致し三無を行い、以て天下に横たわる。四方に敗有れば、必ず先んじてこれを知る。此れを民の父母と謂う。」
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論語・八佾篇『関雎』は楽しくして淫せず、哀しくして傷(やぶ)らず。
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荀子・宥坐篇詩に曰く、「彼の日月を瞻(み)れば、悠悠たり我が思い。道の云(ここ)に遠き、曷(いつ)か云に能く来たらん」と。子曰く、「伊(そ)れ稽首(けいしゅ)せば、其れ来たること有らざらんや」と。
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『呻吟語』外篇・治道・民の父母『詩』に云ふ、「樂しき君子は、民の父母」と。又た曰く、「豈弟の君子は、民の父母」と。君子は『詩』に觀て、政を為すの道を知るなり。
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