徂徠先生答問書 / 卷下
詩書二經御會讀被成候半由一段の儀候。孔子の時分は詩書より外に書物は無之候、論語孟子禮記等に引有之候も、外の書と申物は無之、詩云書云と計有之候。詩書を御學候は古代の學問にて候故珍重不過之存候。但し新註ならで其元に無之候由、左候はゞ新註にて成共、本文の文面を濟し候迄に御覽可然存候。誠に詩經朱傳は朱子の作の內にて不出來なる物故害も少く候。書經新註は、蔡沈が作にてたわひもなき物に候。書經は旁通通考と申物をつけ御覽被成候がよく御座候。詩經は世本古義と申物能候へ共和板に無之候。せめて說約にて成共御覽可被成候。
新字:詩書二経御会読被成候半由一段の儀候。孔子の時分は詩書より外に書物は無之候、論語孟子礼記等に引有之候も、外の書と申物は無之、詩云書云と計有之候。詩書を御学候は古代の学問にて候故珍重不過之存候。但し新註ならで其元に無之候由、左候はゞ新註にて成共、本文の文面を済し候迄に御覧可然存候。誠に詩経朱伝は朱子の作の内にて不出来なる物故害も少く候。書経新註は、蔡沈が作にてたわひもなき物に候。書経は旁通通考と申物をつけ御覧被成候がよく御座候。詩経は世本古義と申物能候へ共和板に無之候。せめて説約にて成共御覧可被成候。
書き下し
詩書二経御会読被成候半由一段の儀候。孔子の時分は詩書より外に書物は無之候、論語孟子礼記等に引有之候も、外の書と申物は無之、詩云書云と計有之候。詩書を御学候は古代の学問にて候故珍重不過之存候。但し新註ならで其元に無之候由、左候はゞ新註にて成共、本文の文面を済し候迄に御覧可然存候。誠に詩経朱伝は朱子の作の内にて不出来なる物故害も少く候。書経新註は、蔡沈が作にてたわひもなき物に候。書経は旁通通考と申物をつけ御覧被成候がよく御座候。詩経は世本古義と申物能候へ共和板に無之候。せめて説約にて成共御覧可被成候。
現代語訳
『詩経』『書経』の二経を会読(共同で読むこと)なさるとのこと、たいへん結構なことです。孔子の時代には詩・書より外に書物はありませんでした。『論語』『孟子』『礼記』などに引いてあるのも、他の書物というものはなく、「詩に云ふ」「書に云ふ」とばかりあります。詩・書を学ばれるのは古代の学問ですから、これ以上めでたいことはないと思います。ただ新注しかお手元にないとのこと、それならば新注ででも、本文の文面を理解するまでにご覧になればよいと思います。実のところ『詩経』の朱子の『詩集伝』は朱子の著作の中でも出来の悪いものなので、害も少ないのです。『書経』の新注は蔡沈の作で、取るに足りないものです。『書経』は『旁通通考』というものを添えてご覧になるのがよいでしょう。『詩経』は『世本古義』というものがよいのですが、和刻本がありません。せめて『説約』ででもご覧になるべきです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之六蓼莪の詩に曰く、之に報いんと欲する徳、昊天極まり罔しと。朱伝に曰く、父母の恩此くの如きを言ふ。之に報いるに徳を以てせんと欲すれども、其の恩の大なること、天の窮まり無きが如く、報を為す所以を知らざるなりと。蓋し徳の字は我の徳を指す。世本古義に曰く、之の徳は上の六句を指し、父母の徳を言ふなりと。窃かに謂へらく、朱伝固より既に明らかなり。然れども古義の説く所の徳の字は上を承けて照応有り。姑く挙げて以て参考に備ふと云ふのみ。
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『徂徠先生答問書』卷中一詩文章の学は無益なる儀の様に被思召候由、宋儒の詞章記誦などゝ申候を御聞入候事年久敷候故、左様思召候にて可有御座候。まづ五経の内に詩経と申物御座候。是はたゞ吾邦の和歌などの様なる物にて別に、心身を治め候道理を説きたる物にても、又国天下を治め候道を説きたる物にても無御座候。古の人のうきにつけうれしきにつけうめき出したる言の葉に候を、其中にて人情によく叶ひ言葉もよく、又其時その国の風俗をしらるべきを、聖人の集め置き人に教へ給ふにて候。是を学び候とて道理の便には成不申候得共、言葉を巧みにして人情をよくのべ候故、其力にて自然と心こなれ、道理もねれ、又道理の上ばかりにては見えがたき世の風儀国の風儀も心に移り、わが心をのづからに人情に行わたり、高き位より賤き人の事をもしり、男が女の心ゆきをもしり、又かしこきが愚なる人の心あわはひをもしらるゝ益御座候。又詞の巧なる物なるゆへ、其事をいふとなしに自然と其心を人に会得さするの益ありて、人を教へ諭し諷諫するに益多く候。
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史記 儒林列伝申公之を恥ぢ、魯に帰り、退きて家に居りて教へ、終身門を出でず、復た賓客を謝絶し、独り王命之を召せば乃ち往く。弟子遠方より至りて業を受くる者百余人。申公独り詩経を以て訓と為して以て教ふ、伝無し、疑はしき者は則ち闕きて伝へず。
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『幽夢影』巻下・古人も亦入聲有るに似たり古人は四聲俱に備はる、「六」「國」の二字の如きは、皆入聲なり。今梨園の蘇秦の劇を演ずるに、必ず「六」を讀みて「溜」と爲し、「國」を讀みて「鬼」と爲し、從來入聲に讀む者無し。然れども之を『詩經』に考ふるに、「良馬六之」「無衣六兮」の類の如きは、皆去聲と叶はずして、「祝」「告」「燠」に叶ふ。「國」の字は皆上聲と叶はずして、「陌」「質」の韻に叶入す。則ち是れ古人も亦入聲有るに似たり、未だ必ずしも盡く「六」を讀みて「溜」と爲し、「國」を讀みて「鬼」と爲さざるなり。
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『徂徠先生答問書』卷下一詩作被成度由能御心付と存候。上代の詩も後世の詩も同事に候。詩作不被成候へば詩経は済不申物に候。一楚辞国語御覧可被成由一段に存候。其外呂氏春秋淮南子説苑家語戦国策老荘列迄も御覧候事可然存候。智見を広め候為、博学候事肝要に候。孔子も博学と被仰候。然所近代の理学者は雑学とて嫌申事聖言に背き申候。只日蓮宗の類と被存候。
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呂氏春秋・先己④詩に曰く、「轡を執ること組の如し。」孔子曰く、「此の言を審らかにすれば、以て天下を為む可し。」子貢曰く、「何ぞ其れ躁なるや。」孔子曰く、「其の躁なるを謂うに非ざるなり。其の之を此に為めて、文を彼に成すを謂えるなり。」聖人は其の身を組修して、文を天下に成す。故に子華子曰く、「丘陵成りて、穴する者安んじ、深淵成りて魚鱉安んじ、松柏成りて塗の人已に蔭せらる。」
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