徂徠先生答問書 / 卷中
一詩文章の學は無益なる儀の樣に被思召候由、宋儒の詞章記誦などゝ申候を御聞入候事年久敷候故、左樣思召候にて可有御座候。まづ五經の內に詩經と申物御座候。是はたゞ吾邦の和歌などの樣なる物にて別に、心身を治め候道理を說きたる物にても、又國天下を治め候道を說きたる物にても無御座候。古の人のうきにつけうれしきにつけうめき出したる言の葉に候を、其中にて人情によく叶ひ言葉もよく、又其時その國の風俗をしらるべきを、聖人の集め置き人に敎へ給ふにて候。是を學び候とて道理の便には成不申候得共、言葉を巧みにして人情をよくのべ候故、其力にて自然と心こなれ、道理もねれ、又道理の上ばかりにては見えがたき世の風儀國の風儀も心に移り、わが心をのづからに人情に行わたり、高き位より賤き人の事をもしり、男が女の心ゆきをもしり、又かしこきが愚なる人の心あわはひをもしらるゝ益御座候。又詞の巧なる物なるゆへ、其事をいふとなしに自然と其心を人に會得さするの益ありて、人を敎へ諭し諷諫するに益多く候。
新字:一詩文章の学は無益なる儀の様に被思召候由、宋儒の詞章記誦などゝ申候を御聞入候事年久敷候故、左様思召候にて可有御座候。まづ五経の内に詩経と申物御座候。是はたゞ吾邦の和歌などの様なる物にて別に、心身を治め候道理を説きたる物にても、又国天下を治め候道を説きたる物にても無御座候。古の人のうきにつけうれしきにつけうめき出したる言の葉に候を、其中にて人情によく叶ひ言葉もよく、又其時その国の風俗をしらるべきを、聖人の集め置き人に教へ給ふにて候。是を学び候とて道理の便には成不申候得共、言葉を巧みにして人情をよくのべ候故、其力にて自然と心こなれ、道理もねれ、又道理の上ばかりにては見えがたき世の風儀国の風儀も心に移り、わが心をのづからに人情に行わたり、高き位より賤き人の事をもしり、男が女の心ゆきをもしり、又かしこきが愚なる人の心あわはひをもしらるゝ益御座候。又詞の巧なる物なるゆへ、其事をいふとなしに自然と其心を人に会得さするの益ありて、人を教へ諭し諷諫するに益多く候。
書き下し
一詩文章の学は無益なる儀の様に被思召候由、宋儒の詞章記誦などゝ申候を御聞入候事年久敷候故、左様思召候にて可有御座候。まづ五経の内に詩経と申物御座候。是はたゞ吾邦の和歌などの様なる物にて別に、心身を治め候道理を説きたる物にても、又国天下を治め候道を説きたる物にても無御座候。古の人のうきにつけうれしきにつけうめき出したる言の葉に候を、其中にて人情によく叶ひ言葉もよく、又其時その国の風俗をしらるべきを、聖人の集め置き人に教へ給ふにて候。是を学び候とて道理の便には成不申候得共、言葉を巧みにして人情をよくのべ候故、其力にて自然と心こなれ、道理もねれ、又道理の上ばかりにては見えがたき世の風儀国の風儀も心に移り、わが心をのづからに人情に行わたり、高き位より賤き人の事をもしり、男が女の心ゆきをもしり、又かしこきが愚なる人の心あわはひをもしらるゝ益御座候。又詞の巧なる物なるゆへ、其事をいふとなしに自然と其心を人に会得さするの益ありて、人を教へ諭し諷諫するに益多く候。
現代語訳
一、詩文章の学問は役に立たないことのようにお考えだとのこと。宋の儒者たちが「詞章記誦(詩文を作り暗記するだけの学)」などと言って退けるのを、長年お聞き入れになってきたから、そうお考えなのでしょう。まず五経の中に『詩経』というものがあります。これはただ我が国の和歌などのようなもので、別に心身を治める道理を説いたものでも、また国や天下を治める道を説いたものでもありません。昔の人が、つらいにつけ嬉しいにつけ、思わずうめき出した言葉のうち、人情によくかない、言葉もよく、またその時代・その国の風俗を知ることができるものを、聖人が集めておいて人に教えられたのです。これを学んだからといって道理の助けにはなりませんが、言葉を巧みにして人情をよく述べているので、その力で自然と心がこなれ、道理も練れ、また道理の上だけでは見えにくい世の風儀や国の風儀も心に移ってきます。自分の心がおのずと人情に行きわたり、高い位にいながら身分の低い人のことも知り、男が女の心の動きも知り、また賢い者が愚かな人の心のあり方も知ることができる、という益があります。また言葉の巧みなものであるから、その事を直接言うのでなくても自然とその心を人に会得させる益があって、人を教え諭し、遠回しに諫めるのに大いに役立ちます。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『慎思録』巻之六蓼莪の詩に曰く、之に報いんと欲する徳、昊天極まり罔しと。朱伝に曰く、父母の恩此くの如きを言ふ。之に報いるに徳を以てせんと欲すれども、其の恩の大なること、天の窮まり無きが如く、報を為す所以を知らざるなりと。蓋し徳の字は我の徳を指す。世本古義に曰く、之の徳は上の六句を指し、父母の徳を言ふなりと。窃かに謂へらく、朱伝固より既に明らかなり。然れども古義の説く所の徳の字は上を承けて照応有り。姑く挙げて以て参考に備ふと云ふのみ。
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『徂徠先生答問書』卷下詩書二経御会読被成候半由一段の儀候。孔子の時分は詩書より外に書物は無之候、論語孟子礼記等に引有之候も、外の書と申物は無之、詩云書云と計有之候。詩書を御学候は古代の学問にて候故珍重不過之存候。但し新註ならで其元に無之候由、左候はゞ新註にて成共、本文の文面を済し候迄に御覧可然存候。誠に詩経朱伝は朱子の作の内にて不出来なる物故害も少く候。書経新註は、蔡沈が作にてたわひもなき物に候。書経は旁通通考と申物をつけ御覧被成候がよく御座候。詩経は世本古義と申物能候へ共和板に無之候。せめて説約にて成共御覧可被成候。
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史記 儒林列伝申公之を恥ぢ、魯に帰り、退きて家に居りて教へ、終身門を出でず、復た賓客を謝絶し、独り王命之を召せば乃ち往く。弟子遠方より至りて業を受くる者百余人。申公独り詩経を以て訓と為して以て教ふ、伝無し、疑はしき者は則ち闕きて伝へず。
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『幽夢影』巻下・古人も亦入聲有るに似たり古人は四聲俱に備はる、「六」「國」の二字の如きは、皆入聲なり。今梨園の蘇秦の劇を演ずるに、必ず「六」を讀みて「溜」と爲し、「國」を讀みて「鬼」と爲し、從來入聲に讀む者無し。然れども之を『詩經』に考ふるに、「良馬六之」「無衣六兮」の類の如きは、皆去聲と叶はずして、「祝」「告」「燠」に叶ふ。「國」の字は皆上聲と叶はずして、「陌」「質」の韻に叶入す。則ち是れ古人も亦入聲有るに似たり、未だ必ずしも盡く「六」を讀みて「溜」と爲し、「國」を讀みて「鬼」と爲さざるなり。
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呂氏春秋・先己④詩に曰く、「轡を執ること組の如し。」孔子曰く、「此の言を審らかにすれば、以て天下を為む可し。」子貢曰く、「何ぞ其れ躁なるや。」孔子曰く、「其の躁なるを謂うに非ざるなり。其の之を此に為めて、文を彼に成すを謂えるなり。」聖人は其の身を組修して、文を天下に成す。故に子華子曰く、「丘陵成りて、穴する者安んじ、深淵成りて魚鱉安んじ、松柏成りて塗の人已に蔭せらる。」
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論語・八佾篇『関雎』は楽しくして淫せず、哀しくして傷(やぶ)らず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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