慎思録 / 巻之六
蓼莪詩曰。欲報之德。昊天罔極。朱傳曰。言父母之恩如此。欲報之以德。而其恩之大。如天無窮。不知所以爲報也。葢德字指我之德。世本古義曰。之德指上六句。言父母之德也。竊謂。朱傳固既明。然古義所說德字承上有照應。姑擧以備參考云爾。
新字:蓼莪詩曰。欲報之徳。昊天罔極。朱伝曰。言父母之恩如此。欲報之以徳。而其恩之大。如天無窮。不知所以為報也。葢徳字指我之徳。世本古義曰。之徳指上六句。言父母之徳也。窃謂。朱伝固既明。然古義所説徳字承上有照応。姑挙以備参考云爾。
書き下し
蓼莪の詩に曰く、之に報いんと欲する徳、昊天極まり罔しと。朱伝に曰く、父母の恩此くの如きを言ふ。之に報いるに徳を以てせんと欲すれども、其の恩の大なること、天の窮まり無きが如く、報を為す所以を知らざるなりと。蓋し徳の字は我の徳を指す。世本古義に曰く、之の徳は上の六句を指し、父母の徳を言ふなりと。窃かに謂へらく、朱伝固より既に明らかなり。然れども古義の説く所の徳の字は上を承けて照応有り。姑く挙げて以て参考に備ふと云ふのみ。
現代語訳
蓼莪の詩に「この徳に報いたいと思っても、大空のように果てがない」とあります。朱伝は「父母の恩がこれほどであることを言う。徳をもって報いようと思っても、その恩の大きさは天のように果てしなく、報いる手だてが分からないのである」と言います。つまり徳の字は自分の徳を指しています。一方『詩経世本古義』は「この徳は前の六句を指し、父母の徳を言う」とします。私が思うに、朱伝の説はもとより明らかです。しかし古義の説く徳の字は前の句を受けて照応しています。ひとまず挙げて参考に備えておくだけです。
解説
前条に続き蓼莪篇の一句「欲報之徳」の徳を、朱子は報いる側の子の徳と読み、明の何楷『詩経世本古義』は父母の徳と読む、と比べた条です。益軒は朱子を正としながらも、別説にも文脈上の筋があると認め、参考として残しています。朱子学者でありながら異説を頭から退けない態度は、この巻でも繰り返し説かれるところです。自分の拠る立場をはっきり持ちつつ、別の読みを捨てずに並べておく姿勢は、議論や研究の場で大いに役立ちます。
この章句が説くこと
詩経朱子恩学問異説
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