徂徠先生答問書 / 卷下
宋儒の格物致知の修行をして、此事はかくあるべきはづ、其事は左あるべき筈と手前より極め出して、是卽聖人の道と替りなしといふ。是臆見なり。手前の見識昇進するに隨ひて、始めかくあるべしと思ひたる事の後は左あるまじと思はるゝ事のいくらもあるべきをもしらず、早速に欛柄手に入るやうに思はるゝ故、如此見識を生ずる事なり。聖人の道は甚深廣大にして、中〳〵學者の見識にてかく有べき筈の道理と見ゆる事にてはなき事也。しかるを我知り顏に成程尤かくあるべき筈と思ひたらんは、聖人へ此方より印可を出す心根、誠に推參の至極と云つべし。其上聖人の道を己が心のかねに合せて成程尤かくあるべき筈と淺墓にきはめ行時は、後々は己が心に合たる所計を取りて、己が心に尤と思はぬ所をば棄る事に成行申候故、聖人の道と存候得共、皆々己が臆見に成申事に候。かくのごときの見識長ずるに隨ひて、見識淺露迫切になりて、聖人の道の甚深廣大なる筋とは日々に遠ざかり行、果は高慢甚敷成行事に候。
新字:宋儒の格物致知の修行をして、此事はかくあるべきはづ、其事は左あるべき筈と手前より極め出して、是即聖人の道と替りなしといふ。是臆見なり。手前の見識昇進するに随ひて、始めかくあるべしと思ひたる事の後は左あるまじと思はるゝ事のいくらもあるべきをもしらず、早速に欛柄手に入るやうに思はるゝ故、如此見識を生ずる事なり。聖人の道は甚深広大にして、中〳〵学者の見識にてかく有べき筈の道理と見ゆる事にてはなき事也。しかるを我知り顔に成程尤かくあるべき筈と思ひたらんは、聖人へ此方より印可を出す心根、誠に推参の至極と云つべし。其上聖人の道を己が心のかねに合せて成程尤かくあるべき筈と浅墓にきはめ行時は、後々は己が心に合たる所計を取りて、己が心に尤と思はぬ所をば棄る事に成行申候故、聖人の道と存候得共、皆々己が臆見に成申事に候。かくのごときの見識長ずるに随ひて、見識浅露迫切になりて、聖人の道の甚深広大なる筋とは日々に遠ざかり行、果は高慢甚敷成行事に候。
書き下し
宋儒の格物致知の修行をして、此事はかくあるべきはづ、其事は左あるべき筈と手前より極め出して、是即聖人の道と替りなしといふ。是臆見なり。手前の見識昇進するに随ひて、始めかくあるべしと思ひたる事の後は左あるまじと思はるゝ事のいくらもあるべきをもしらず、早速に欛柄手に入るやうに思はるゝ故、如此見識を生ずる事なり。聖人の道は甚深広大にして、中〳〵学者の見識にてかく有べき筈の道理と見ゆる事にてはなき事也。しかるを我知り顔に成程尤かくあるべき筈と思ひたらんは、聖人へ此方より印可を出す心根、誠に推参の至極と云つべし。其上聖人の道を己が心のかねに合せて成程尤かくあるべき筈と浅墓にきはめ行時は、後々は己が心に合たる所計を取りて、己が心に尤と思はぬ所をば棄る事に成行申候故、聖人の道と存候得共、皆々己が臆見に成申事に候。かくのごときの見識長ずるに随ひて、見識浅露迫切になりて、聖人の道の甚深広大なる筋とは日々に遠ざかり行、果は高慢甚敷成行事に候。
現代語訳
宋儒は格物致知の修行をして、この事はこうあるべきはず、あの事はそうあるべきはずと自分の側から決めて、これがすなわち聖人の道と変わりがないと言います。これは臆見です。自分の見識が進むにつれて、初めはこうあるべきと思ったことが、後にはそうではあるまいと思われることがいくらもあるはずなのにそれを知らず、すぐに要所を手に入れたように思うので、このような見識が生じるのです。聖人の道は非常に深く広大で、とても学者の見識でこうあるべきはずの道理だと見通せるようなものではありません。それなのに、わかった顔をして「なるほどもっともだ、こうあるべきはずだ」と思うのは、聖人に対してこちらから印可(悟りの証明)を出してやるような心根で、まことに僭越の極みと言うべきです。そのうえ、聖人の道を自分の心の物差しに合わせて「なるほどもっとも、こうあるべきはず」と浅はかに決めていくと、後々は自分の心に合うところだけを取り、自分の心にもっともと思えないところは捨てるようになっていくので、聖人の道のつもりでいても、すべて自分の臆見になってしまうのです。このような見識が増していくにつれ、見識は浅く露わでせせこましくなり、聖人の道の深く広大な筋からは日に日に遠ざかり、果てはひどく高慢になっていくのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『徂徠先生答問書』卷上一総じて風雲雷雨は天地の妙用にて、殊に雷には発生の徳備り候事に候。是より外の儀は愚老は不存候。古より陰陽之気共申、或は鬼神之所為共申、或は獣之類共申候。畢竟天地は活物にて神妙不測なる物に候を、人の限ある智にて思計り候故、右のごとくの諸説御座候得共、皆推量の沙汰にて手にとり候様なる事は無御座候。所詮君子の学問と申候は、国家を平治する道を学び候事にて、人事の上の事学び尽しがたく御座候。格物致知と申事を宋儒見誤り候てより、風雲雷雨の沙汰、一草一木の理までをきはめ候を学問と存候。其心入を尋ね候に、天地の間のあらゆる事を極め尽し、何事もしらぬ事なく、物しりといふ物になりたきといふ事迄に候。中庸に雖聖人有所不知と御座候を、凡人の智慮にて何として知り尽すといふ事可有之候哉。宋儒の説は、人のならぬ事を立てゝ人を強ゆるにて候。是よりして一物不知を恥とすといふ事を儒者盛んに申候。皆高慢の心入にて、聖賢の道には曽て無之事に候。
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『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
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『徂徠先生答問書』卷下又格物の二字を究到事物之理と註有之候。是は易の究理の文字を借来て註したる物に候。格は到也物は事なりと註したれば、文面の儘にては究理の義は無之候。究到事物之理といふ註は、本文にも無之候究理の二字を付添て義を生じたる物に候、此段疑敷は無之候哉。且易に有之候究理は、聖人の易を作給へるを讃嘆したる詞にて、全く今日学者の上の事にては無之候。心を平にして御覧可被成候。今日天下の理は究尽さるべき物に候哉。是皆人のならぬ事を説て人を強ると申物にて候。且又三綱領八条目の委細なる修行の仕形、何として大学に計有之六経の内一所にも無之候哉。是等の所疑は無之候哉。且又程朱之学問は、理気を分ち、天理人欲を分ち、本然気質を分ち候より外は無之候。如此肝要なる事を、何として古の聖人は説不被申候哉。果して程朱の説是に候はヾ、程朱は孔子にまさる事分明に候。若又古の聖人の教法至極に候はゞ、程朱の説は別に一流と申物にては無之候哉。
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『徂徠先生答問書』卷上一前答にて、最前申入候趣も御疑とけ、其外兼々の御疑網共も散し候事多御入候由珍重存候。数年御学問の功積り候て、御疑共数多御蓄へ被置候故、右様の御得益有之候と相見え、御志の程感入候。総じて学問と申候物は、自身にわれと合点いたし候事にて御座候。孔門の教皆此通にて御座候。末世にいたり候ても、教方も学びかたも皆々如此に候。今時の講釈などは、一座の上にて能申取候を詮に仕候故、疑もつき不申、得益少く候。久敷承候へば、一種のこはぐるしき理窟たち候て、其害甚敷候。これにより候て、聖人の道は人情には遠き事に候今の世には合不申儀に候と人々存候様に罷成候。聖人の智は、智の至極に候故、聖人の道は、何れの世にてもなり申候事と申候儀を深く御信じ可被成候。左様に思召入候はゞ、尚又様々の疑出可申候。以上。
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『徂徠先生答問書』卷下宋儒の経学につのり候人は、是非邪正の差別つよく成行、物毎にすみよりすみ迄はきと致したる事を好み、はては高慢甚敷怒多く成申候物に候。風雅文才ののびやかなる事は嫌ひに成行、人柄悪敷成申候事世上共に多御座候。山崎浅見が人柄も大形御聞伝可被成候。是学様の悪敷而已にても無之候。元来其学流の偏なる所より出でたる事にて候。世上にて俗人の申候は、学問したる人は人柄悪敷と申候事偽にて無之候。御両所共に国政をも御聞被成候御家筋の由、一入宋学の害を御受不被成様に仕度存候。惣じて学問の道は心を向上に立て、程朱をいかめしく思召候はゞ程朱程に可成と可被思召候。程朱は誰人にもたよらず直に経書を学び候て漸くあの位に成被申候。今程朱の跡に付御学び候ては、程朱ほどに可成様曽て無之候。程朱の被学候通に被成御学被成、博く学びたる上にて、兎角程朱の説宜敷思召候はヾ、其時に程朱を御用候がよく御座候。只今程朱を信仰被成候は只人そやめきと申物に候。愚老が門風は、只如此誰にもたよらず直に古聖人の書より見開き候を専途に仕候。
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『学則』答安澹泊書然れども六経残欠し、其の得て識るべからざる者も、亦た復た鮮なからず。君子其の知らざる所に於ては蓋し闕如たり。豈に以て恥と為すに足らんや。而るに宋儒は句ごとに之が解を為り、字ごとに之が詁を為る。是れ其の知らざる所を強ひて以て知ると為す者なり。其の謬り亦た宜ならずや。不佞は則ち以為へらく、道の大なる、豈に庸劣の能く知る所ならんや。聖人の心は唯だ聖人にして而る後に之を知る、亦た今人の能く知る所に非ざるなり。故に其の得て推すべき者は、事と辞とのみ。事と辞とは卑卑焉たる儒者の業なりと雖も、唯だ章句を守りて、諸を後世に伝へ、力を陳べて列に就くは、唯だ是れ其の分なり。其の道の若きは、則ち以て後の聖人を竢つ、是れ不佞の志なり。
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