徂徠先生答問書 / 卷下
又格物の二字を究到事物之理と註有之候。是は易の究理の文字を借來て註したる物に候。格は到也物は事なりと註したれば、文面の儘にては究理の義は無之候。究到事物之理といふ註は、本文にも無之候究理の二字を付添て義を生じたる物に候、此段疑敷は無之候哉。且易に有之候究理は、聖人の易を作給へるを讃歎したる詞にて、全く今日學者の上の事にては無之候。心を平にして御覽可被成候。今日天下の理は究盡さるべき物に候哉。是皆人のならぬ事を說て人を强ると申物にて候。且又三綱領八條目の委細なる修行の仕形、何として大學に計有之六經の内一所にも無之候哉。是等の所疑は無之候哉。且又程朱之學問は、理氣を分ち、天理人欲を分ち、本然氣質を分ち候より外は無之候。如此肝要なる事を、何として古の聖人は說不被申候哉。果して程朱の說是に候はヾ、程朱は孔子にまさる事分明に候。若又古の聖人の敎法至極に候はゞ、程朱の說は別に一流と申物にては無之候哉。
新字:又格物の二字を究到事物之理と註有之候。是は易の究理の文字を借来て註したる物に候。格は到也物は事なりと註したれば、文面の儘にては究理の義は無之候。究到事物之理といふ註は、本文にも無之候究理の二字を付添て義を生じたる物に候、此段疑敷は無之候哉。且易に有之候究理は、聖人の易を作給へるを讃嘆したる詞にて、全く今日学者の上の事にては無之候。心を平にして御覧可被成候。今日天下の理は究尽さるべき物に候哉。是皆人のならぬ事を説て人を強ると申物にて候。且又三綱領八条目の委細なる修行の仕形、何として大学に計有之六経の内一所にも無之候哉。是等の所疑は無之候哉。且又程朱之学問は、理気を分ち、天理人欲を分ち、本然気質を分ち候より外は無之候。如此肝要なる事を、何として古の聖人は説不被申候哉。果して程朱の説是に候はヾ、程朱は孔子にまさる事分明に候。若又古の聖人の教法至極に候はゞ、程朱の説は別に一流と申物にては無之候哉。
書き下し
又格物の二字を究到事物之理と註有之候。是は易の究理の文字を借来て註したる物に候。格は到也物は事なりと註したれば、文面の儘にては究理の義は無之候。究到事物之理といふ註は、本文にも無之候究理の二字を付添て義を生じたる物に候、此段疑敷は無之候哉。且易に有之候究理は、聖人の易を作給へるを讃嘆したる詞にて、全く今日学者の上の事にては無之候。心を平にして御覧可被成候。今日天下の理は究尽さるべき物に候哉。是皆人のならぬ事を説て人を強ると申物にて候。且又三綱領八条目の委細なる修行の仕形、何として大学に計有之六経の内一所にも無之候哉。是等の所疑は無之候哉。且又程朱之学問は、理気を分ち、天理人欲を分ち、本然気質を分ち候より外は無之候。如此肝要なる事を、何として古の聖人は説不被申候哉。果して程朱の説是に候はヾ、程朱は孔子にまさる事分明に候。若又古の聖人の教法至極に候はゞ、程朱の説は別に一流と申物にては無之候哉。
現代語訳
また「格物」の二字を「事物の理を究め到る」と注しています。これは『易』の「窮理」の文字を借りてきて注したものです。「格は到なり、物は事なり」と注したのですから、文面のままでは究理の意味はありません。「事物の理を究め到る」という注は、本文にもない「究理」の二字を付け足して意味を生じさせたものです。この点、疑わしくはないでしょうか。そのうえ『易』にある窮理は、聖人が易をお作りになったことを讃嘆した言葉であって、まったく今日の学者の身の上のことではありません。心を平らにしてご覧なさい。今日、天下の理は究め尽くせるものでしょうか。これはみな、人にできないことを説いて人に強いるというものです。また三綱領八条目の委細な修行の仕方が、どうして『大学』にだけあって、六経の中に一か所もないのでしょうか。こうした点に疑いはないでしょうか。また程朱の学問は、理と気を分け、天理と人欲を分け、本然の性と気質の性を分けるよりほかにはありません。このように肝要なことを、どうして古の聖人はお説きにならなかったのでしょうか。もし程朱の説が正しいなら、程朱は孔子に勝ることが明らかです。もしまた古の聖人の教え方が至極であるなら、程朱の説は別の一流というものではないでしょうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『学則』答安澹泊書格物を解して事物の理を究め到すと為す。是れ究理の二字を加へて、其の義始めて成る。殊に牽強を覚ゆ。且つ究理は、本と聖人の易を作るを賛するの言なり。豈に之を学者に望むべけんや。且つ天下の理、豈に究め尽くすべけんや。明徳の解は美なりと雖も、詩・左伝に至りては、合はざる者有り。且つ天下の人をして皆以て其の明徳を明らかにすること有らしむるは、堯舜の世と雖も、豈に此の事有らんや。
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『弁名』物鄭玄の大学を解するに、格を訓じて来と為す、古訓の尚ほ存する者爲り。朱子は解して究理と為す。究理は聖人の事なり、豈に之を学者に望むべけんや。且つ其の解に曰く、「物理を究至す」と。是れ格物に究理を加へて而る後に義始めて成る。文外に意を生ずと謂ふべし。豈に妄に非ずや。且つ古の所謂知至るとは、諸を身に得て而る後に知始めて明らかなるを謂ふなり。而るに朱子は外に在る者を究めて吾が知を致さんと欲す。強ふと謂ふべきのみ。
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『弁名』學朱子は究理を以て格物を解す。殊に知らず、究理とは聖人の易を作るを賛するの言なるを。豈に学者の能くする所ならんや。天下の理は窮尽すべからず、故に一旦豁然の説を立てて以て之を済ふ。夫れ小道小芸も亦た皆悟有り。然れども一事には一事の悟有り、一節には一節の悟有り。嚮者に知らざる所、今者忽然として之を知る、之を悟と謂ふ。然れども豈に所謂大悟なる者有らんや。浮屠は生死を出離するを以て学と為す。而して生死は出離すべからず、故に大悟の説有り。今推して以て諸を聖人の道に合す、豈に之有らんや。果して其の説の是ならんか、行の艱きに非ず、知の艱きなり。其の経文に於て、豈に相反せずや。致知・誠意・正心・脩身は、皆格物の功効なり。其の必ずしも先後を分たざるを見るべきのみ。陽明先生の知行合一の説は、聡敏の至りと謂ふべし。然れども亦た先王の教に遵ふを知らず。豈に惜しからずや。
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『徂徠先生答問書』卷下扨は大学に八条目と申事、無之事に候。子細は在明明徳。在親民。在止於至善。と前に有之候。在格物と後に有之候。然れば格物一条にて済申事に候。夫故物格而后知。至知至而意誠と言て天下平迄、順流直下の文勢に候。然れば格物の一条にて事済候間、此上に誠意正心修身等の工夫は無之事に候。是文面の儘に見候時如此に御座候。扨又明明徳於天下と云註に、使天下之人皆有以明其明徳と有之候。心を平にして御覧可被成候。堯舜の世也共、如此事世界に有べき事共不被存候。殊に朱子の説にも、既に大学小学を分て、大学は庶人の悉学ぶ事と不被申候、こゝに至り候ては、又天下の人に皆大学の教を施すと相見え申候。此等の所御疑は無御座候哉。且又孟子に学校の事を説候次に、人倫明於上庶民親於下と有之候。然れば親民は新民と不改がよく候。殊に新民の文字は、書経の面革命の事に候。大学の教は平日の事に候。是等の所齟齬甚敷候。
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『童子問』卷下問ふ、承る、朱陸の学は皆天下古今の同じく然る所の道に非ずと。然らば則ち古人は之を己の心と事物の理とに求めざるか。曰く、古人何ぞ嘗て己の心に求めざらん。亦何ぞ物理を講明せざらん。但宋の諸老と夐然として自ら異なり。仁に居り義に由り、忠信以て之を守り、敬恕以て之を行ふ。此れ古人の己の心に求むる所以なり。後世の学問、聖賢の書を講議せざるに非ず。然れども其の自ら学を為す所以に至つては、則ち別に一段の名目を立てて、以て学問の宗旨と為す。無欲・主静・持敬・致良知の説のごとき、是れなり。物理を講究するがごときは、古人も亦廃せず。但古人は己を修め人を治むるを以て学と為して、物理を講究するに至つては自ら其の余事と為して、専ら力を此れに用ひず。後世は格物窮理を以て最初入門の功夫と為し、天文・地理・律暦・兵刑・農圃・医より、以て一艸一木の微に至るまで、鑽研講磨して以て其の理を求めざる莫し。其の言に曰く、一書を読まざれば、則ち一書の理を闕き、一事を窮めざれば、則ち一事の理を闕くと。夫れ天下の書は其の多きに勝へず、天下の事は其の繁きに堪へず。如し一一其の理に通暁せんと欲せば、則ち惟日も足らず。己を修め人を治むるの術に至つては、自ら之を度外に置かざること能はず。近世の諸大儒も、亦多く此れを以て許多の歳月を糜爛す。惜しむべし。
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伝習録・答顧東橋書来書に云う、「人に致知・明徳を教えて、其の物に即して理を窮むるを戒む。誠に昏闇の士をして、深居端坐し、教告を聞かずして、遂に能く知致り徳明らかなるに至らしめんや。縦令(たと)い静にして覚有り、稍(やや)本性を悟るも、則ち亦た定慧無用の見ならん。果たして能く古今を知り、事変に達して、用を天下国家の実に致すや否や。其の曰く、『知は意の体、物は意の用。物を格すは君心の非を格すの格の如し』と。語は超悟なりと雖も、独り得て陳見を踵(つ)がざるも、抑も恐らくは道に於て未だ相い吻合せざらん」と。区区、致知格物を論ずるは、正に理を窮むる所以なり。未だ嘗て人の理を窮むるを戒め、之をして深居端坐して一も事とする所無からしめず。若し物に即して理を窮むるを謂わば、前に云う所の「外を務めて内を遺る」者の如くんば、則ち不可なる所有るのみ。昏闇の士も、果たして能く事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致さば、則ち愚と雖も必ず明らかに、柔と雖も必ず強く、大本立ちて達道行われ、九経の属も、一以て之を貫きて遺す無からん。尚お何ぞ其の致用の実無きを患えんや。彼の頑空虚静の徒は、正に惟だ事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致す能わずして、倫理を遺棄し、寂滅虚無を以て常と為す。是を以て之を要するに以て家国天下を治むべからず。孰か聖人の窮理尽性の学にして、亦た是の弊有りと謂わんや。心は、身の主なり。而して心の虚霊明覚は、即ち所謂る本然の良知なり。其の虚霊明覚の良知の感に応じて動く者、之を意と謂う。知有りて而る後に意有り。知無くんば則ち意無し。知は意の体に非ずや。意の用うる所は必ず其の物有り。物は即ち事なり。意、親に事うるに用うるが如きは、既に親に事うるを一物と為す。意、民を治むるに用うれば、即ち民を治むるを一物と為す。意、書を読むに用うれば、即ち書を読むを一物と為す。意、訟を聴くに用うれば、則ち訟を聴くを一物と為す。凡そ意の用うる所、物無き者有る無し。是の意有れば即ち是の物有り。是の意無くんば即ち是の物無し。物は意の用に非ずや。「格」の字の義は、「至」の字を以て訓ずる者有り。「文祖に格る」「有苗、来り格る」の如きは、是れ「至」を以て訓ずる者なり。然れども「文祖に格る」は、必ず純孝誠敬にして、幽明の間、一も其の理を得ざる無くして、而る後に之を「格」と謂う。有苗の頑なるも、実に文徳の誕(おお)いに敷くを以てして而る後に格る。則ち亦た「正」の字の義を兼ねて其の間に在る有り。未だ専ら「至」の字を以て之を尽くすべからざるなり。「其の非心を格す」「大臣は君心の非を格す」の類の如きは、是れ則ち一に皆な「其の不正を正して以て正に帰す」の義なり。而して「至」の字を以て訓と為すべからず。且つ『大学』の「格物」の訓も、又た安くんぞ其れ「正」の字を以て訓と為さずして、必ず「至」の字を以て義と為すを知らんや。
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