徂徠先生答問書 / 卷下
論こゝに至り候得ば、多くは時代の不同などゝすべらかし候事、後世利口の徒の申事に候。是は古書に熟し不申候故、古今之差別は曾て無之事と申事を不存故に候。古の聖人の智は、古今を貫透して、今日樣々の弊迄明に御覽候。古聖人の敎は、古今を貫透して、其敎の利益上古も末代も聊の替目無之候。左無御座候ては聖人とは不被申事に候。宋儒理氣の說は、佛家の眞諦假諦に相似候。天理人欲は、眞如無明に相似候。古は聖人賢人と云名目は無之候。是又佛菩薩に相似候。道統の傳と申事古は無之候。是佛家の血脈相傳に相似候。敎に知行を分つと申事古は無之候。佛家には解行と申事有之候。豁然貫通と申事古は無之候。禪家の大悟徹底に相似候。靜坐と申事古は無之候。是又坐禪之眞似と被存候。殊に本然氣質の性と申儀、得と詮議をつめ御覽可被成候。畢竟氣質の性計につまり候事に候。氣質を變化すると申事是又無理の至極に候。人のならぬ事を强ゆるにて候。只々心を平にして今日成べき事かなるまじき事歟古とてもかくあるべき事歟あるまじき事歟と身にとり御思慮候はゞ、宋儒の誤は見え分れ可申候。
新字:論こゝに至り候得ば、多くは時代の不同などゝすべらかし候事、後世利口の徒の申事に候。是は古書に熟し不申候故、古今之差別は曽て無之事と申事を不存故に候。古の聖人の智は、古今を貫透して、今日様々の弊迄明に御覧候。古聖人の教は、古今を貫透して、其教の利益上古も末代も聊の替目無之候。左無御座候ては聖人とは不被申事に候。宋儒理気の説は、仏家の真諦仮諦に相似候。天理人欲は、真如無明に相似候。古は聖人賢人と云名目は無之候。是又仏菩薩に相似候。道統の伝と申事古は無之候。是仏家の血脈相伝に相似候。教に知行を分つと申事古は無之候。仏家には解行と申事有之候。豁然貫通と申事古は無之候。禅家の大悟徹底に相似候。静坐と申事古は無之候。是又坐禅之真似と被存候。殊に本然気質の性と申儀、得と詮議をつめ御覧可被成候。畢竟気質の性計につまり候事に候。気質を変化すると申事是又無理の至極に候。人のならぬ事を強ゆるにて候。只々心を平にして今日成べき事かなるまじき事歟古とてもかくあるべき事歟あるまじき事歟と身にとり御思慮候はゞ、宋儒の誤は見え分れ可申候。
書き下し
論こゝに至り候得ば、多くは時代の不同などゝすべらかし候事、後世利口の徒の申事に候。是は古書に熟し不申候故、古今之差別は曽て無之事と申事を不存故に候。古の聖人の智は、古今を貫透して、今日様々の弊迄明に御覧候。古聖人の教は、古今を貫透して、其教の利益上古も末代も聊の替目無之候。左無御座候ては聖人とは不被申事に候。宋儒理気の説は、仏家の真諦仮諦に相似候。天理人欲は、真如無明に相似候。古は聖人賢人と云名目は無之候。是又仏菩薩に相似候。道統の伝と申事古は無之候。是仏家の血脈相伝に相似候。教に知行を分つと申事古は無之候。仏家には解行と申事有之候。豁然貫通と申事古は無之候。禅家の大悟徹底に相似候。静坐と申事古は無之候。是又坐禅之真似と被存候。殊に本然気質の性と申儀、得と詮議をつめ御覧可被成候。畢竟気質の性計につまり候事に候。気質を変化すると申事是又無理の至極に候。人のならぬ事を強ゆるにて候。只々心を平にして今日成べき事かなるまじき事歟古とてもかくあるべき事歟あるまじき事歟と身にとり御思慮候はゞ、宋儒の誤は見え分れ可申候。
現代語訳
議論がここに至ると、多くは「時代が違う」などと言ってはぐらかすのが、後世の口達者な連中の言うことです。これは古書に熟していないので、古今の差別は決してないということを知らないからです。古の聖人の知恵は古今を貫き通して、今日のさまざまな弊害まで明らかにご覧になっていました。古の聖人の教えは古今を貫き通して、その教えの利益は上古も末代も少しも変わり目がありません。そうでなければ聖人とは言えません。宋儒の理気の説は、仏家の真諦・仮諦に似ています。天理人欲は、真如・無明に似ています。古には聖人・賢人という名目(修行の段階としての呼び名)はありませんでした。これもまた仏・菩薩に似ています。道統の伝ということは古にはありませんでした。これは仏家の血脈相承に似ています。教えに知と行を分けるということは古にはありませんでした。仏家には解と行ということがあります。豁然貫通ということは古にはありませんでした。禅家の大悟徹底に似ています。静坐ということは古にはありませんでした。これもまた坐禅の真似と思われます。ことに本然の性・気質の性ということは、とくと詮議を詰めてご覧なさい。結局は気質の性ばかりに行き詰まることです。気質を変化させるということも、これまた無理の至極です。人にできないことを強いるものです。ただただ心を平らにして、今日できることかできないことか、古もこうであったはずのことかありえないことかと、わが身に引き当ててお考えになれば、宋儒の誤りは見分けられるでしょう。
解説
この章句が説くこと
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『徂徠先生答問書』卷中又米にて豆にもなり、豆にて米にも用られ候様にと申事に候はゞ、世界に左様なる事は無之事に候。是皆聖人になり候はんと求めしより起り候妄説に候。聖人は聰明睿智の徳を天よりうけ得て神明にひとしき人にて候を、何として人力を以てなり可申候哉。さる程に古より聖人になりたる人無御座候へば、妄説なる事明白に候。聖人の教には聖人になれと申候事は無之候。聖人の教に順ひて君子になり候事に候。宋儒の説は、仏法にて仏になり候と申候を能事と存じ、其真似をいたしたる事にて候。宋儒の説には人欲浄尽て天理渾然なる人を聖人と立候へ共、其分にては聖人とは申されず候。己が心にて聖人はかくのごときと了簡をしてこしらへたて候は、雷又鬼などを絵がき候に相似候。見もせぬ物を推量にて絵がき候を誠と存候て、雷は大鼓をたゝく、鬼は虎の皮の下帯をいたしたる物と存候児女子の心と、宋儒の説に従ひて聖人を思ひやり申候と、左迄は違不申と存事に候。聖人の教に順ひ候と、宋儒の教に従候とにて、かやうほどの相違は出来申候。能々御思量可被成候。以上。
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『徂徠先生答問書』卷下一申残候趣有之候故又申入候。惣て学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章に候。能文章を会得して、書籍の儘済し候て我意を少も雑え不申候得ば、古人の意は、明に候。聖人の道は聖人の教法に順はずして可得様曽て無之候。其教法は書籍に有之候故つまる所是又文章に帰し申候。然る所文章も字義も時代に随て致展転候所眼の付所にて候に、後世儒者我物ずきを立候故、道徳は尊く文章は卑き事なりと思ひとり、文章を軽看致し候より、右の所に心付不申、右の所に心付不申候故、古聖人の教法見え分れ不申、我知見にて聖人の道を会得せんとする故皆自己流に罷成候。宋学の輩は識見益鄙陋にて、程朱陽明吾国にて闇斎仁斎等の末師を信ずる事孔子よりも甚敷候。たとへて申候はゞ、仏者の輩釈迦の説をば不用して、深く法然日蓮を信ずるがごとくに候。教に古今なく、道にも古今なく候。聖人の道にて今日の国天下も治り候事に候。外に仕形は無之候。聖人の教にて今日の人も才徳を成就候事に候。是又外に仕形無之候。
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『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
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『徂徠先生答問書』序七十子没して、諸家殽乱す。目を瞋らして語難く、察して自ら好む。彫龍炙轂、懼然として化を顧み、擾擾として糸棼る。道将に天下の為に裂けんとす。或いは吾以て聖人と為るべしと謂ひ、或いは性命の道に通ずれば、以て坐して天下を治むべしと謂ふ。後世此の説を祖述する者、曷ぞ嘗て聖人の道是に具はると謂はざらんや。陽には六芸を推尊すと為すと雖も、然れども事合はざる所有れば、則ち亦た陰に之を諸子に断じ、其の徴する所に甘心す。所謂詩書の恒言なる者は、子焉として芻狗と為す。吾の以て聖と為るべしと曰はば、則ち孔子よりして後数千余年、円冠方屨、逢衣博帯、巍然として儒者と称する、吾は是れ聖なりと謂はざるは莫し。是れ何の聖ぞ、抑も何ぞ多きや。此の理有り、蓋し学んで為るべしと曰はば、則ち孔子よりして後数千余年、寥寥乎として一人の焉に造る者を見ず。而るに焉に造らんと欲す、抑も何ぞ迂なるや。則ち吾は信ぜざるなり。性命の説に至りては、後世滔滔たる者皆以て言を為す。推して至微に帰し、膚を割き理を分かつ。要するに亦た濫なるのみ。静かに言へども庸ふれば違ふ、其れ天下国家を奈何せん。而るに其の徒、義を誦して窮まり無し。此れ何を以てか称せんや。
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『童子問』卷下問ふ、仏氏謂ふ、三代以前は聖人儒中に生じ、三代以後は聖人仏中に生ずと。然るか。曰く、非なり。近くして平正なる者を視ては、必ず惰りて敬せず。遠くして奇僻なる者を視ては、必ず驚いて以て高しと為す。古今の通患なり。況んや人の視て以て聖人と為す者は、自ら殊なり。故に其の之を称する所以の者も、亦随つて異なり。儒者は仁智合一・至誠無息なる者を以て聖人と為し、仏氏は清浄無欲にして明鏡止水のごとき者を以て聖人と為す。是れ其の聖人と為す者の、大いに異なる所以なり。其の心明鏡止水のごときは、本形骸を具ふる者の及ぶ所に匪ず。藉令明鏡止水のごとき者有るも、亦但一長歎を発するに過ぎずして、天下国家の治に於て、分毫の補ひ無し。奚ぞ以て貴しと為すに足らん。達磨・慧能・臨済・雲門の徒のごとき、彼素山林に屏居して、人事を謝絶し、内に人倫の累無く、外に職務の紛れ無し。故に其の高風凛然として、仰ぐべく欽ふべし。若し其れをして人倫の間に居り、四民の業を執らしめば、其の高風凛然たる者、必ず蕭索蕩尽して、略観るべき者無からん。且つ妻孥を呵責し、奴隷を殴撃して、閨門和せず、家法壊乱し、至らざる所靡からん。又其れをして一官に居り一職を授けしめば、必ず顚倒錯乱し、庶事曠廃して、自ら劾を投じて去るに至らん。良吏の政事に精練なる者に若かざること、遠く甚だし。奚ぞ敢へて房・杜・韓・范の諸賢を望まんや。仏氏の所謂聖人なる者、豈に之を尚ぶに足らんや。宋三百年、禅の傑然たる者、宗杲に若くは莫し。然れども其の事を作すを観るに、点検少なく、喜怒節に中らず。則ち実に韓・范諸公の百分の一にも及ばず。其の人亦知るべし。
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『童子問』卷中禅家に頓悟の説有り、儒者に一旦豁然の論有り。聖人の学に於て、亦之れ有りやと問ふ。曰く、之れ無し。聖人の学は、実語を以て実理を明らかにす。目観て耳聞き、心得て身有す。故に践履の言ふべき有りて、頓悟の期すべき無し。禅者は空言を以て空理を説く。耳聞く所無く、目観る所無し。故に悟を用ひざることを得ず。蓋し実徳有りて、而る後に実見有り。猶ほ白日に物を視るがごとし。歴歴分明にして、既に疑ふ所無く、亦迷ふ所無し。人心に根ざし、風俗に存し、天地を包括して余り無く、古今を周羅して遺す無し。仁者は仁に安んじ、智者は仁を利とす。任重くして道遠し、死して後已む。何ぞ頓悟の期すべき有らん。宋儒は無声無臭の妙を以て、無極の真と為し、本心の体と為して、格物致知して以て之を領会せんことを要す。所以に亦一旦豁然の説有るなり。猶ほ無物の地に於て物を求むるがごとし。眼中見る所有るが如しと雖も、実は物無し。空見に非ずして何ぞ。水は吾其の淡きを知り、塩は吾其の鹹きを知る。然れども塩と水とを服せずして、其の鹹淡を知らんと欲するは、既に得べからず。況んや鹹淡を塩と水との外に求めんと欲するをや。吾其の以て鹹しと為し淡しと為す者は、乃ち其の虚見にして、真の鹹淡に非ざることを知るなり。夫れ道は仁義礼智に至りて極まり、教へは孝弟忠信に至りて尽く。而るに其の上面に於て、更に悟道を求むるは、奚ぞ鹹淡を塩と水との外に求むるに異ならんや。宜なるかな、其の頓悟豁然の説有るや。
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