童子問 / 卷下
問。佛氏謂。三代以前聖人生于儒中。三代以後聖人生于佛中。然乎。曰非也。視近而平正者。必惰而不敬。視遠而奇僻者。必驚以爲高。古今之通患也。况乎人之視以爲聖人者。自殊。故其所以稱之者。亦隨而異。儒者以仁智合一至誠無息者爲聖人。佛氏以淸淨無欲若明鏡止水者爲聖人。是其爲聖人者。所以大異也。其心如明鏡止水。本匪具形骸者之所及。藉令有如明鏡止水者。亦但不過發一長歎。而於天下國家之治。無分毫之補。奚足以爲貴。若達磨慧能臨濟雲門之徒。彼素屏居山林。謝絕人事。內無人倫之累。外無職務之紛。故其高風凛然。可仰可欽。若使其居人倫之間。執四民之業。其高風凛然者。必蕭索蕩盡。略無可觀者。且呵責妻孥。毆擊奴隷。閨門不和。家法壞亂。靡所不至。又使其居一官授一職。必顚倒錯亂。庶事曠廢。至自投劾而去。不若良吏精練政事者。遠甚。奚敢望房杜韓范之諸賢。佛氏所謂聖人者。豈足尙之乎。宋三百年。禪之傑然者。莫宗杲若。然觀其作事少點檢。喜怒不中節。則實不及韓范諸公百分之一。其人亦可知矣。
新字:問。仏氏謂。三代以前聖人生于儒中。三代以後聖人生于仏中。然乎。曰非也。視近而平正者。必惰而不敬。視遠而奇僻者。必驚以為高。古今之通患也。況乎人之視以為聖人者。自殊。故其所以称之者。亦随而異。儒者以仁智合一至誠無息者為聖人。仏氏以清浄無欲若明鏡止水者為聖人。是其為聖人者。所以大異也。其心如明鏡止水。本匪具形骸者之所及。藉令有如明鏡止水者。亦但不過発一長嘆。而於天下国家之治。無分毫之補。奚足以為貴。若達磨慧能臨済雲門之徒。彼素屏居山林。謝絶人事。内無人倫之累。外無職務之紛。故其高風凛然。可仰可欽。若使其居人倫之間。執四民之業。其高風凛然者。必蕭索蕩尽。略無可観者。且呵責妻孥。殴撃奴隷。閨門不和。家法壊乱。靡所不至。又使其居一官授一職。必顛倒錯乱。庶事曠廃。至自投劾而去。不若良吏精練政事者。遠甚。奚敢望房杜韓范之諸賢。仏氏所謂聖人者。豈足尚之乎。宋三百年。禅之傑然者。莫宗杲若。然観其作事少点検。喜怒不中節。則実不及韓范諸公百分之一。其人亦可知矣。
書き下し
問ふ、仏氏謂ふ、三代以前は聖人儒中に生じ、三代以後は聖人仏中に生ずと。然るか。曰く、非なり。近くして平正なる者を視ては、必ず惰りて敬せず。遠くして奇僻なる者を視ては、必ず驚いて以て高しと為す。古今の通患なり。況んや人の視て以て聖人と為す者は、自ら殊なり。故に其の之を称する所以の者も、亦随つて異なり。儒者は仁智合一・至誠無息なる者を以て聖人と為し、仏氏は清浄無欲にして明鏡止水のごとき者を以て聖人と為す。是れ其の聖人と為す者の、大いに異なる所以なり。其の心明鏡止水のごときは、本形骸を具ふる者の及ぶ所に匪ず。藉令明鏡止水のごとき者有るも、亦但一長歎を発するに過ぎずして、天下国家の治に於て、分毫の補ひ無し。奚ぞ以て貴しと為すに足らん。達磨・慧能・臨済・雲門の徒のごとき、彼素山林に屏居して、人事を謝絶し、内に人倫の累無く、外に職務の紛れ無し。故に其の高風凛然として、仰ぐべく欽ふべし。若し其れをして人倫の間に居り、四民の業を執らしめば、其の高風凛然たる者、必ず蕭索蕩尽して、略観るべき者無からん。且つ妻孥を呵責し、奴隷を殴撃して、閨門和せず、家法壊乱し、至らざる所靡からん。又其れをして一官に居り一職を授けしめば、必ず顚倒錯乱し、庶事曠廃して、自ら劾を投じて去るに至らん。良吏の政事に精練なる者に若かざること、遠く甚だし。奚ぞ敢へて房・杜・韓・范の諸賢を望まんや。仏氏の所謂聖人なる者、豈に之を尚ぶに足らんや。宋三百年、禅の傑然たる者、宗杲に若くは莫し。然れども其の事を作すを観るに、点検少なく、喜怒節に中らず。則ち実に韓・范諸公の百分の一にも及ばず。其の人亦知るべし。
現代語訳
問う。仏者は「三代以前には聖人は儒の中に生まれ、三代以後には聖人は仏の中に生まれた」と言う。そうなのか。答える。違う。身近で平正なものを見ると、必ず怠って敬わず、遠く奇異なものを見ると、必ず驚いて高いと思う。これは古今に共通する病である。まして人が聖人と見なすものはそれぞれ異なり、だから称える理由もそれに応じて異なる。儒者は仁と智が一つに合い、至誠が止むことのない人を聖人とし、仏者は清浄無欲で明鏡止水のような人を聖人とする。これが聖人とするものが大いに異なるゆえんである。心が明鏡止水のようであることは、もともと肉体をもつ者の及ぶところではない。たとえ明鏡止水のような者がいたとしても、ただ一つ長いため息を漏らすにすぎず、天下国家の治にはわずかの助けにもならない。どうして貴ぶに足りようか。達磨・慧能・臨済・雲門のような人々は、もともと山林に引きこもって世間の事を断ち、内には人倫のわずらいがなく、外には職務の煩わしさがない。だからその高い風格は凛としていて、仰ぎ敬うべきものがある。しかしもし彼らを人倫の中に置き、士農工商の仕事に就かせたなら、その凛とした高い風格は必ずさびれ尽きて、ほとんど見るべきものがなくなるだろう。そのうえ妻子を叱りつけ、使用人を殴り、家の内は不和となり、家の決まりは壊れ乱れて、どこまでも行き着くだろう。また彼らを官職に就け一つの職務を授ければ、必ず混乱して諸事は放置され、自ら弾劾の書を出して辞めるに至るだろう。政務に練達した良い役人にもはるかに及ばない。どうして房玄齢・杜如晦・韓琦・范仲淹のような賢人を望めようか。仏者のいう聖人など、どうして尊ぶに足りようか。宋の三百年で禅の傑出した者は大慧宗杲に及ぶ者はない。しかしその行いを見ると、自分を省みることが少なく、喜怒が節度に合っていない。実に韓琦・范仲淹らの百分の一にも及ばない。その人となりも知れようというものだ。
解説
この章句が説くこと
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『五常訓』巻之三・仁之下一程子の言に、聖賢の仁をいへる処をあつめて見ば、仁を知り得んといへり。今の学者、仁を知らんとならば、孔孟程朱の仁を説き給へる言を、数年の間、心をひそめて、求め味ふべし。急迫にすべからず。誠積み力久しくば、自然に其理を知るべし。若然らずば、聰明博学の人といへども、仁をば知りがたかるべし。
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『大和俗訓』巻之七・躬行下一程子曰、財ををしみては、よく善を行ふことなり難し。誠なくしては、善をなす事はなり難しと。此言むべなるかな。財を用ひずして、ただ言を以て人をかたらふとも、人を救ひがたし。人もまた悦ばずして其人のために忠を尽さざれば功をなすこと成りがたし。項羽を婦人の仁といひしも是なり。又凡の事、いつはりを以て善を行へば、中心より出でざる故、善を行ふに専一ならずして、其事成就せず。誠の善とすべからず。人も亦信とせず。感通の理なし。
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『慎思録』巻之一仲虺の誥に曰く、克く寛に克く仁に、信を兆民に彰かにすと。六経の仁信を言ふは、此に始まる。又曰く、義を以て事を制し、礼を以て心を制すと。六経の義礼を言ふは、此に始まる。又曰く、天乃ち王に勇智を錫ふと。六経の智勇を言ふは、此に始まる。湯誥に曰く、惟れ皇いなる上帝、衷を下民に降す。恒の性有るに若ひ、克く厥の猷を綏んずるは、惟れ后なりと。六経の性を言ふは、此に始まる。太甲に曰く、鬼神は常に享くること無し、克く誠なるに享くと。六経の誠を言ふは、此に始まる。
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『家道訓』巻之六・用財下一貧しき人は、貨財を以て礼とせず。老いたる人の、筋力を以て礼とせざるが如し。もし貧賤ならざる人は、贈物を以て其誠をあらはす。是古人のなせる所、礼の道なり。父母兄弟親戚朋友或は恩をうけし人には、贈物を以て其の誠をあらはし、其の情を通ずべし。古人、貧しきは束脩をおくり、富めるは玉帛をおくる。吝なる人は、財を惜みて礼なし。おくるべき人におくらず、是吝嗇なるは、不仁にして誠なきによれり。いかんとなれば、我が子には多く財をつひやせどもをしまず。是愛ふかければなり。しかれば財ををしみて贈答の礼なきは、不仁よりおこる。いはんや贈物にさほど財のつひえなし、
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『格言聯璧』從政類・治道の要は人を知るに在り必ず私無くして、斯に上下四旁咸な其の平を得。 治道の要は、人を知るに在り。君德の要は、仁を體するに在り。 臣を禦するの要は、誠を推すに在り。人を用ふるの要は、言を擇ぶに在り。 財を理むるの要は、經制に在り。用を足すの要は、斂を薄くするに在り。
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