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童子問 / 卷中

問禪家有頓悟之說。儒者有一旦豁然之論。於聖人之學。亦有之乎。曰。無之。聖人之學。以實語明實理。目觀而耳聞。心得而身有。故有踐履之可言。而無頓悟之可期。禪者以空言說空理。耳無所聞。目無所觀。故不得不用悟。葢有實德。而後有實見。猶白日視物。歷歷分明。既無所疑。亦無所迷。根乎人心。存乎風俗。包括天地。而無餘。周羅古今。而無遺。仁者安仁。智者利仁。任重道遠。死而後已。何有頓悟之可期。宋儒以無聲無臭之妙。爲無極之眞。爲本心之體。而要格物致知以領會之。所以亦有一旦豁然之說也。猶於無物之地求物。雖眼中如有所見。而實無物。非空見而何。水吾知其淡。鹽吾知其鹹。然不服鹽與水。而欲知其鹹淡。旣不可得。況欲求鹹淡於鹽與水之外。吾知其以爲鹹爲淡者。乃其虛見。而非眞鹹淡也。夫道至仁義禮智。而極矣。敎至孝弟忠信。而盡矣。而於其上面。更求悟道。奚以異乎求鹹淡於鹽與水之外。宜乎。其有頓悟豁然之說也。

新字:問禅家有頓悟之説。儒者有一旦豁然之論。於聖人之学。亦有之乎。曰。無之。聖人之学。以実語明実理。目観而耳聞。心得而身有。故有践履之可言。而無頓悟之可期。禅者以空言説空理。耳無所聞。目無所観。故不得不用悟。葢有実徳。而後有実見。猶白日視物。歴歴分明。既無所疑。亦無所迷。根乎人心。存乎風俗。包括天地。而無余。周羅古今。而無遺。仁者安仁。智者利仁。任重道遠。死而後已。何有頓悟之可期。宋儒以無声無臭之妙。為無極之真。為本心之体。而要格物致知以領会之。所以亦有一旦豁然之説也。猶於無物之地求物。雖眼中如有所見。而実無物。非空見而何。水吾知其淡。塩吾知其鹹。然不服塩与水。而欲知其鹹淡。既不可得。況欲求鹹淡於塩与水之外。吾知其以為鹹為淡者。乃其虚見。而非真鹹淡也。夫道至仁義礼智。而極矣。教至孝弟忠信。而尽矣。而於其上面。更求悟道。奚以異乎求鹹淡於塩与水之外。宜乎。其有頓悟豁然之説也。

書き下し

禅家に頓悟の説有り、儒者に一旦豁然の論有り。聖人の学に於て、亦之れ有りやと問ふ。曰く、之れ無し。聖人の学は、実語を以て実理を明らかにす。目観て耳聞き、心得て身有す。故に践履の言ふべき有りて、頓悟の期すべき無し。禅者は空言を以て空理を説く。耳聞く所無く、目観る所無し。故に悟を用ひざることを得ず。蓋し実徳有りて、而る後に実見有り。猶ほ白日に物を視るがごとし。歴歴分明にして、既に疑ふ所無く、亦迷ふ所無し。人心に根ざし、風俗に存し、天地を包括して余り無く、古今を周羅して遺す無し。仁者は仁に安んじ、智者は仁を利とす。任重くして道遠し、死して後已む。何ぞ頓悟の期すべき有らん。宋儒は無声無臭の妙を以て、無極の真と為し、本心の体と為して、格物致知して以て之を領会せんことを要す。所以に亦一旦豁然の説有るなり。猶ほ無物の地に於て物を求むるがごとし。眼中見る所有るが如しと雖も、実は物無し。空見に非ずして何ぞ。水は吾其の淡きを知り、塩は吾其の鹹きを知る。然れども塩と水とを服せずして、其の鹹淡を知らんと欲するは、既に得べからず。況んや鹹淡を塩と水との外に求めんと欲するをや。吾其の以て鹹しと為し淡しと為す者は、乃ち其の虚見にして、真の鹹淡に非ざることを知るなり。夫れ道は仁義礼智に至りて極まり、教へは孝弟忠信に至りて尽く。而るに其の上面に於て、更に悟道を求むるは、奚ぞ鹹淡を塩と水との外に求むるに異ならんや。宜なるかな、其の頓悟豁然の説有るや。

現代語訳

問う。禅家には頓悟の説があり、儒者には「ある日ぱっと開ける」(一旦豁然)という論がある。聖人の学にも、これがあるのか。答えていう。ない。聖人の学は、実のある言葉で実のある理を明らかにする。目で見て耳で聞き、心で会得して身に保つ。だから実践を語ることはできても、頓悟を期待することはない。禅者は空しい言葉で空しい理を説く。耳で聞くところもなく、目で見るところもない。だから悟りを用いないわけにはいかないのである。思うに、実の徳があって、そののちに実の見識がある。白昼に物を見るように、一つ一つはっきりしていて、疑うところもなく迷うところもない。人の心に根ざし、風俗のうちに存し、天地を包んで余すところなく、古今にゆきわたって漏らすところがない。仁者は仁に安んじ、智者は仁を良しとして行う。任務は重く道は遠く、死んでのちにやむ。どうして頓悟を期待することがあろうか。宋儒は声もなく匂いもない妙なるものを無極の真とし、本心の本体として、格物致知によってそれを会得しようとする。だから一旦豁然の説があるのである。それは何も無いところで物を求めるようなものである。目の中に何か見えるようであっても、実は何も無い。空しい見解でなくて何であろう。水は淡いと私は知り、塩は辛いと私は知る。しかし塩や水を口にせずに、その辛さ淡さを知ろうとしても、もとより得られない。まして辛さ淡さを塩や水の外に求めようとするならなおさらである。そうして辛いとか淡いとかするものは、その虚しい見解であって、本当の辛さ淡さではないと私は知っている。そもそも道は仁義礼智に至って極まり、教えは孝弟忠信に至って尽きる。それなのにその上にさらに悟道を求めるのは、辛さ淡さを塩や水の外に求めるのとどう違おう。頓悟や豁然の説があるのも、もっともなことである。

解説

禅の頓悟と朱子学の「一旦豁然」を、仁斎はともに退ける。聖人の学は実語で実理を明らかにし、見て聞いて身につけるものだから、語るべきは日々の実践であって、突然の悟りではない。宋儒が無声無臭の本体を格物致知で会得しようとするのは、何も無いところに物を求めるようなものだという批判は鋭い。塩や水を口にせずにその味を知ろうとし、まして塩と水の外に味を求めるという比喩は痛快である。道は仁義礼智、教えは孝弟忠信で尽きている。働く人にとっても、抽象的な悟りより、日々の具体的な実践のなかにしか本当の理解はないという示唆になる。

この章句が説くこと

頓悟道仁義実理朱子学批判孝弟

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