徂徠先生答問書 / 卷下
一學問の仕形、宋朝に至別に一流出來候と申事、御不審致承知候。被仰聞候大學程朱の解大きに違候事に候。明德の二字大學の開卷第一義に候。然處左傳に禹之明德遠矣と有之、又聖人而有明德と申事有之候。是等は朱子明德の解にては一向通不申事に候。其外詩經の內にも明德の字多有之候。朱子の解にて通じ申候哉。枉て理窟を御附候はゞ、言廻し聞ゆるやうにも可有之候へども、惣て文章を會得する事は語路の穩成やうに會得する事に候。今時の講釋學問は、無理に辨をつけ、言廻し候て聞ゆる樣に申候故、曾て疑付不申候。只本文計にて文字の付添なく、穩に落着申にて無之候得ば、書籍のよく濟たると申物にては無御座候。是等の所も、無點の書を自見に御覽不被成候ては、濟やうの穩なると申事卒度參兼候半歟。
新字:一学問の仕形、宋朝に至別に一流出来候と申事、御不審致承知候。被仰聞候大学程朱の解大きに違候事に候。明徳の二字大学の開巻第一義に候。然処左伝に禹之明徳遠矣と有之、又聖人而有明徳と申事有之候。是等は朱子明徳の解にては一向通不申事に候。其外詩経の内にも明徳の字多有之候。朱子の解にて通じ申候哉。枉て理窟を御附候はゞ、言廻し聞ゆるやうにも可有之候へども、惣て文章を会得する事は語路の穏成やうに会得する事に候。今時の講釈学問は、無理に弁をつけ、言廻し候て聞ゆる様に申候故、曽て疑付不申候。只本文計にて文字の付添なく、穏に落着申にて無之候得ば、書籍のよく済たると申物にては無御座候。是等の所も、無点の書を自見に御覧不被成候ては、済やうの穏なると申事卒度参兼候半歟。
書き下し
一学問の仕形、宋朝に至別に一流出来候と申事、御不審致承知候。被仰聞候大学程朱の解大きに違候事に候。明徳の二字大学の開巻第一義に候。然処左伝に禹之明徳遠矣と有之、又聖人而有明徳と申事有之候。是等は朱子明徳の解にては一向通不申事に候。其外詩経の内にも明徳の字多有之候。朱子の解にて通じ申候哉。枉て理窟を御附候はゞ、言廻し聞ゆるやうにも可有之候へども、惣て文章を会得する事は語路の穏成やうに会得する事に候。今時の講釈学問は、無理に弁をつけ、言廻し候て聞ゆる様に申候故、曽て疑付不申候。只本文計にて文字の付添なく、穏に落着申にて無之候得ば、書籍のよく済たると申物にては無御座候。是等の所も、無点の書を自見に御覧不被成候ては、済やうの穏なると申事卒度参兼候半歟。
現代語訳
一、学問の仕方が宋の時代に至って別に一流ができたということについて、ご不審の旨承知しました。お聞かせいただいた『大学』の程朱の解釈は大いに誤っています。「明徳」の二字は『大学』の巻を開いて第一の義です。ところが『左伝』に「禹の明徳は遠いかな」とあり、また「聖人にして明徳あり」ということがあります。これらは朱子の明徳の解釈ではまったく通じません。そのほか『詩経』の中にも明徳の字が多くあります。朱子の解釈で通じるでしょうか。無理に理屈をお付けになれば、言い回しで通じるようにもなるでしょうが、総じて文章を会得するということは、語の流れが穏やかになるように会得することです。今どきの講釈の学問は、無理に弁を付け、言い回して通じるように言うので、決して疑いがつきません。ただ本文だけで文字の付け足しなく穏やかに落ち着くのでなければ、書籍がよく理解できたというものではありません。こうした点も、無点の書を自分で見てご覧にならなければ、理解の穏やかさということは、ちょっと分かりかねるでしょうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『徂徠先生答問書』卷下被仰下候筋にて相考候得ば、只今迄専宋学を被成候と相見え候。学問の仕形宋朝に至候て別に一流出来候て、古聖人の教法と各別に罷成候。依是宋朝の窠窟に落候ては、学問の進候事曽て有之間敷候。四書五経の新註大全等、宋儒の語録類、詩文にては東坡山谷三体詩瀛奎律髄の類、歴史にては通鑑綱目の書法発明等、皆損友と可被思召候。経学は古註、歴史は左伝国語史記前漢書、文章は楚辞文選韓柳迄は不苦候。惣て漢以前の書籍は、老荘列の類も益人之知見候。是も林希逸解は悪敷候。詩は唐詩選唐詩品彙、是等を益友と可被思召候。明朝の李空同何大復李于鱗王元美詩文宜敷候得共、是は遠境書籍有之間敷存候。先有增右の通と可被思召候。
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『学則』答安澹泊書格物を解して事物の理を究め到すと為す。是れ究理の二字を加へて、其の義始めて成る。殊に牽強を覚ゆ。且つ究理は、本と聖人の易を作るを賛するの言なり。豈に之を学者に望むべけんや。且つ天下の理、豈に究め尽くすべけんや。明徳の解は美なりと雖も、詩・左伝に至りては、合はざる者有り。且つ天下の人をして皆以て其の明徳を明らかにすること有らしむるは、堯舜の世と雖も、豈に此の事有らんや。
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『徂徠先生答問書』卷下一申残候趣有之候故又申入候。惣て学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章に候。能文章を会得して、書籍の儘済し候て我意を少も雑え不申候得ば、古人の意は、明に候。聖人の道は聖人の教法に順はずして可得様曽て無之候。其教法は書籍に有之候故つまる所是又文章に帰し申候。然る所文章も字義も時代に随て致展転候所眼の付所にて候に、後世儒者我物ずきを立候故、道徳は尊く文章は卑き事なりと思ひとり、文章を軽看致し候より、右の所に心付不申、右の所に心付不申候故、古聖人の教法見え分れ不申、我知見にて聖人の道を会得せんとする故皆自己流に罷成候。宋学の輩は識見益鄙陋にて、程朱陽明吾国にて闇斎仁斎等の末師を信ずる事孔子よりも甚敷候。たとへて申候はゞ、仏者の輩釈迦の説をば不用して、深く法然日蓮を信ずるがごとくに候。教に古今なく、道にも古今なく候。聖人の道にて今日の国天下も治り候事に候。外に仕形は無之候。聖人の教にて今日の人も才徳を成就候事に候。是又外に仕形無之候。
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『学則』答屈景山書且つ明徳・異端の如き、其の解豈に美ならざらんや。然れども詩・左伝・家語に至りては、合はざる者有り。里仁なる者は、仁に居るなり。主皮は、革を貫くに非ざるなり。「何か我に有らんや」、謙辞なりと謂ふ者は、其の説康衢の謡に至りて窮す。「君子人か、君子人なり」、問答と作して解するも、亦た戴記に至りて悖る。「夷狄の君有る」「素以て絢と為す」、皆辞を枉げて以て己の見に従ふ。凡そ此の類の如き、更僕するも何ぞ罄くさん。
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『徂徠先生答問書』卷下一宋儒古言を失候ても道理は古今一般との儀、此御尋は無理の至極に候。古言を失候へば本文の義理違候。本文の義理違候を道理一般とは、あまりに贔負過と存候。一無点の書を読習候は、僧家の経読の如く致したるが能候哉の由、夫は如何様共可被成候。直読に成共、返り候て成とも、様々に可被成候。指当り一難事と思召の由、尤左様可有御座候。乍去点を御頼候分にては、御学問はいつ迄も同事に可有之候。只歴史又は五雑爼類の物にても。又は医書兵書の類にても、何にても兎角読易き物を御見習候が能御座候。一五代一覧を真字に御直し御覧可被成候由、夫もよく可有御座候得共、左候はヾ先歴史御覧可被成候。歴史御覧なく、只今の通の材木にて真字に御直しは何の益も有之間敷候。
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『徂徠先生答問書』卷上一前答にて、最前申入候趣も御疑とけ、其外兼々の御疑網共も散し候事多御入候由珍重存候。数年御学問の功積り候て、御疑共数多御蓄へ被置候故、右様の御得益有之候と相見え、御志の程感入候。総じて学問と申候物は、自身にわれと合点いたし候事にて御座候。孔門の教皆此通にて御座候。末世にいたり候ても、教方も学びかたも皆々如此に候。今時の講釈などは、一座の上にて能申取候を詮に仕候故、疑もつき不申、得益少く候。久敷承候へば、一種のこはぐるしき理窟たち候て、其害甚敷候。これにより候て、聖人の道は人情には遠き事に候今の世には合不申儀に候と人々存候様に罷成候。聖人の智は、智の至極に候故、聖人の道は、何れの世にてもなり申候事と申候儀を深く御信じ可被成候。左様に思召入候はゞ、尚又様々の疑出可申候。以上。
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