学則 / 答安澹泊書
解格物爲究到於事物之理。是加究理二字。其義始成。殊覺牽强。且究理。本賛聖人作易之言。豈可望之學者乎。且天下之理。豈可究盡哉。明德之解雖美乎。至於詩左傳。而有不合者焉。且使天下之人皆有以明其明德。雖堯舜之世。豈有此事哉。
新字:解格物為究到於事物之理。是加究理二字。其義始成。殊覚牽強。且究理。本賛聖人作易之言。豈可望之学者乎。且天下之理。豈可究尽哉。明徳之解雖美乎。至於詩左伝。而有不合者焉。且使天下之人皆有以明其明徳。雖堯舜之世。豈有此事哉。
書き下し
格物を解して事物の理を究め到すと為す。是れ究理の二字を加へて、其の義始めて成る。殊に牽強を覚ゆ。且つ究理は、本と聖人の易を作るを賛するの言なり。豈に之を学者に望むべけんや。且つ天下の理、豈に究め尽くすべけんや。明徳の解は美なりと雖も、詩・左伝に至りては、合はざる者有り。且つ天下の人をして皆以て其の明徳を明らかにすること有らしむるは、堯舜の世と雖も、豈に此の事有らんや。
現代語訳
(『大学』の)「格物」を、宋儒は「事物の理を窮め至る」と解釈します。これは「究理」の二字を付け加えて初めて意味が成り立つもので、ひどくこじつけに感じます。しかも「理を究める」とは、もともと聖人が『易』を作ったことをたたえる言葉です(『易経』説卦伝)。どうしてそれを学ぶ者に求められましょう。そもそも天下の理を究め尽くすことなどできるでしょうか。「明徳」の解釈は美しいけれども、『詩経』や『左伝』の用例に当てはめると合わないところがあります。しかも天下の人すべてに自分の明徳を明らかにさせるなどということは、堯・舜の世であっても、どうしてありえたでしょうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『徂徠先生答問書』卷下又格物の二字を究到事物之理と註有之候。是は易の究理の文字を借来て註したる物に候。格は到也物は事なりと註したれば、文面の儘にては究理の義は無之候。究到事物之理といふ註は、本文にも無之候究理の二字を付添て義を生じたる物に候、此段疑敷は無之候哉。且易に有之候究理は、聖人の易を作給へるを讃嘆したる詞にて、全く今日学者の上の事にては無之候。心を平にして御覧可被成候。今日天下の理は究尽さるべき物に候哉。是皆人のならぬ事を説て人を強ると申物にて候。且又三綱領八条目の委細なる修行の仕形、何として大学に計有之六経の内一所にも無之候哉。是等の所疑は無之候哉。且又程朱之学問は、理気を分ち、天理人欲を分ち、本然気質を分ち候より外は無之候。如此肝要なる事を、何として古の聖人は説不被申候哉。果して程朱の説是に候はヾ、程朱は孔子にまさる事分明に候。若又古の聖人の教法至極に候はゞ、程朱の説は別に一流と申物にては無之候哉。
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『徂徠先生答問書』卷下扨は大学に八条目と申事、無之事に候。子細は在明明徳。在親民。在止於至善。と前に有之候。在格物と後に有之候。然れば格物一条にて済申事に候。夫故物格而后知。至知至而意誠と言て天下平迄、順流直下の文勢に候。然れば格物の一条にて事済候間、此上に誠意正心修身等の工夫は無之事に候。是文面の儘に見候時如此に御座候。扨又明明徳於天下と云註に、使天下之人皆有以明其明徳と有之候。心を平にして御覧可被成候。堯舜の世也共、如此事世界に有べき事共不被存候。殊に朱子の説にも、既に大学小学を分て、大学は庶人の悉学ぶ事と不被申候、こゝに至り候ては、又天下の人に皆大学の教を施すと相見え申候。此等の所御疑は無御座候哉。且又孟子に学校の事を説候次に、人倫明於上庶民親於下と有之候。然れば親民は新民と不改がよく候。殊に新民の文字は、書経の面革命の事に候。大学の教は平日の事に候。是等の所齟齬甚敷候。
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『徂徠先生答問書』卷下一学問の仕形、宋朝に至別に一流出来候と申事、御不審致承知候。被仰聞候大学程朱の解大きに違候事に候。明徳の二字大学の開巻第一義に候。然処左伝に禹之明徳遠矣と有之、又聖人而有明徳と申事有之候。是等は朱子明徳の解にては一向通不申事に候。其外詩経の内にも明徳の字多有之候。朱子の解にて通じ申候哉。枉て理窟を御附候はゞ、言廻し聞ゆるやうにも可有之候へども、惣て文章を会得する事は語路の穏成やうに会得する事に候。今時の講釈学問は、無理に弁をつけ、言廻し候て聞ゆる様に申候故、曽て疑付不申候。只本文計にて文字の付添なく、穏に落着申にて無之候得ば、書籍のよく済たると申物にては無御座候。是等の所も、無点の書を自見に御覧不被成候ては、済やうの穏なると申事卒度参兼候半歟。
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伝習録・答顧東橋書来書に云う、「人に致知・明徳を教えて、其の物に即して理を窮むるを戒む。誠に昏闇の士をして、深居端坐し、教告を聞かずして、遂に能く知致り徳明らかなるに至らしめんや。縦令(たと)い静にして覚有り、稍(やや)本性を悟るも、則ち亦た定慧無用の見ならん。果たして能く古今を知り、事変に達して、用を天下国家の実に致すや否や。其の曰く、『知は意の体、物は意の用。物を格すは君心の非を格すの格の如し』と。語は超悟なりと雖も、独り得て陳見を踵(つ)がざるも、抑も恐らくは道に於て未だ相い吻合せざらん」と。区区、致知格物を論ずるは、正に理を窮むる所以なり。未だ嘗て人の理を窮むるを戒め、之をして深居端坐して一も事とする所無からしめず。若し物に即して理を窮むるを謂わば、前に云う所の「外を務めて内を遺る」者の如くんば、則ち不可なる所有るのみ。昏闇の士も、果たして能く事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致さば、則ち愚と雖も必ず明らかに、柔と雖も必ず強く、大本立ちて達道行われ、九経の属も、一以て之を貫きて遺す無からん。尚お何ぞ其の致用の実無きを患えんや。彼の頑空虚静の徒は、正に惟だ事に随い物に随いて此の心の天理を精察し、以て其の本然の良知を致す能わずして、倫理を遺棄し、寂滅虚無を以て常と為す。是を以て之を要するに以て家国天下を治むべからず。孰か聖人の窮理尽性の学にして、亦た是の弊有りと謂わんや。心は、身の主なり。而して心の虚霊明覚は、即ち所謂る本然の良知なり。其の虚霊明覚の良知の感に応じて動く者、之を意と謂う。知有りて而る後に意有り。知無くんば則ち意無し。知は意の体に非ずや。意の用うる所は必ず其の物有り。物は即ち事なり。意、親に事うるに用うるが如きは、既に親に事うるを一物と為す。意、民を治むるに用うれば、即ち民を治むるを一物と為す。意、書を読むに用うれば、即ち書を読むを一物と為す。意、訟を聴くに用うれば、則ち訟を聴くを一物と為す。凡そ意の用うる所、物無き者有る無し。是の意有れば即ち是の物有り。是の意無くんば即ち是の物無し。物は意の用に非ずや。「格」の字の義は、「至」の字を以て訓ずる者有り。「文祖に格る」「有苗、来り格る」の如きは、是れ「至」を以て訓ずる者なり。然れども「文祖に格る」は、必ず純孝誠敬にして、幽明の間、一も其の理を得ざる無くして、而る後に之を「格」と謂う。有苗の頑なるも、実に文徳の誕(おお)いに敷くを以てして而る後に格る。則ち亦た「正」の字の義を兼ねて其の間に在る有り。未だ専ら「至」の字を以て之を尽くすべからざるなり。「其の非心を格す」「大臣は君心の非を格す」の類の如きは、是れ則ち一に皆な「其の不正を正して以て正に帰す」の義なり。而して「至」の字を以て訓と為すべからず。且つ『大学』の「格物」の訓も、又た安くんぞ其れ「正」の字を以て訓と為さずして、必ず「至」の字を以て義と為すを知らんや。
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『学則』答安澹泊書大氏孔子の時の学問は、専ら力を礼に用ふ。而るに宋儒は爾らず。其の主張する所の理気の説は、六経に之無し。唯だ易に形而上下の言有り。然れども所謂器なる者は、亦た器を制し器を尚び器を蔵するの器なり。本文証すべし。豈に気の謂ならんや。天理人欲は楽記に出づれども、人欲を去りて以て之を尽くすとは言はず。夫れ人欲浄尽は、豈に人の能く為す所ならんや。克己の己を己私と為す。然れども六経に此の例無し。且つ下文の由己は、乃ち人己の己なり。孔子一時の言、豈に是くの若く乖張せんや。
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『学則』答安澹泊書然れども六経残欠し、其の得て識るべからざる者も、亦た復た鮮なからず。君子其の知らざる所に於ては蓋し闕如たり。豈に以て恥と為すに足らんや。而るに宋儒は句ごとに之が解を為り、字ごとに之が詁を為る。是れ其の知らざる所を強ひて以て知ると為す者なり。其の謬り亦た宜ならずや。不佞は則ち以為へらく、道の大なる、豈に庸劣の能く知る所ならんや。聖人の心は唯だ聖人にして而る後に之を知る、亦た今人の能く知る所に非ざるなり。故に其の得て推すべき者は、事と辞とのみ。事と辞とは卑卑焉たる儒者の業なりと雖も、唯だ章句を守りて、諸を後世に伝へ、力を陳べて列に就くは、唯だ是れ其の分なり。其の道の若きは、則ち以て後の聖人を竢つ、是れ不佞の志なり。
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