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弁名 / 德

王孫滿曰。桀有昏德。鼎遷于商。德之休明。雖小重也。其奸回昏亂。雖大輕也。天祚明德。有所底止。劉子曰。美哉禹功。明德遠矣。微禹吾其魚乎。孟僖子曰。聖人有明德者。若不當世。其後必有達人。皆汎稱聖人之德而已。不必拘明字矣。然亦以其德顯明衆所皆知言之。朱子虛靈不昧。主心學。古所無也。仁齋先生以聖人之德光輝發越爲解。僅足以解中庸引詩予懷明德而已。皆求之太深之失也。左傳非僻書。二家未之考。果何謂也。

新字:王孫満曰。桀有昏徳。鼎遷于商。徳之休明。雖小重也。其奸回昏乱。雖大軽也。天祚明徳。有所底止。劉子曰。美哉禹功。明徳遠矣。微禹吾其魚乎。孟僖子曰。聖人有明徳者。若不当世。其後必有達人。皆汎称聖人之徳而已。不必拘明字矣。然亦以其徳顕明衆所皆知言之。朱子虚霊不昧。主心学。古所無也。仁斎先生以聖人之徳光輝発越為解。僅足以解中庸引詩予懐明徳而已。皆求之太深之失也。左伝非僻書。二家未之考。果何謂也。

書き下し

王孫満曰く、「桀に昏徳有りて、鼎商に遷る。徳の休明なるは、小なりと雖も重し。其の姦回昏乱なるは、大なりと雖も軽し。天明徳に祚して、底止する所有り」と。劉子曰く、「美なるかな禹の功、明徳遠し。禹微かりせば吾其れ魚ならんか」と。孟僖子曰く、「聖人の明徳有る者、若し世に当たらずんば、其の後必ず達人有り」と。皆汎く聖人の徳を称するのみ。必ずしも明の字に拘らざるなり。然れども亦た其の徳顕明にして衆の皆知る所なるを以て之を言ふ。朱子の虚霊不昧は、心学を主とす。古に無き所なり。仁斎先生は聖人の徳の光輝発越するを以て解と為す。僅かに以て中庸の詩を引く「予明徳を懐ふ」を解するに足るのみ。皆之を求むること太だ深きの失なり。左伝は僻書に非ず。二家未だ之を考へず。果たして何をか謂ふや。

現代語訳

王孫満は言う。「桀には暗い徳があったので、九鼎は商に移った。徳が美しく明らかなら、鼎は小さくても重い。邪悪で乱れていれば、大きくても軽い。天は明徳に福を授け、それには定まりがある」。劉子は言う。「すばらしいかな禹の功績、その明徳は遠くまで及ぶ。禹がいなければ我々は魚になっていただろう」。孟僖子は言う。「明徳ある聖人が、もし世に用いられなければ、その子孫に必ず通達した人が出る」。これらはみな広く聖人の徳を称えただけで、必ずしも「明」の字にこだわる必要はない。それでも、その徳が顕らかで人々がみな知っているという意味で言っている。朱子の「虚霊不昧(霊妙で曇りがない)」という解釈は心学を主としたもので、古にはない。仁斎先生は聖人の徳が光り輝き外に発することと解したが、それは『中庸』が引く詩「われ明徳を懐ふ」を解くのに足りる程度にすぎない。どちらも深く求めすぎた誤りである。『左伝』は珍しい書物ではないのに、二人はこれを調べなかった。いったいどういうことか。

解説

明徳の章の結びで徂徠は、朱子が『大学章句』で明徳を「虚霊不昧」、つまり心の霊妙な本体と解したことを、古にない心学の読み込みだと断じる。仁斎の「光輝発越」も一部の用例にしか合わない。『左伝』のようなありふれた書を調べれば、明徳が目に見える君主や聖人の徳だとわかるのに、両者は確かめなかった。深遠な解釈ほど魅力的に見えるが、基本資料に当たらなければ空論になる。仕事でも、凝った仮説を立てる前に、誰でも手に取れる一次データを調べることが、遠回りに見えて一番の近道である。

この章句が説くこと

明徳朱子学仁斎左伝心学一次資料

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