学則 / 答屈景山書
且如明德異端。其解豈不美乎。然至於詩左傳家語。有不合者焉。里仁者。居仁也。主皮。非貫革也。何有於我哉。謂謙辭也者。其說至於康衢之謠而窮焉。君子人與。君子人也。作問答解。亦至於戴記而悖焉。夷狄之有君。素以爲絢兮。皆枉辭以從己之見焉。凡如此類。更僕何罄。
新字:且如明徳異端。其解豈不美乎。然至於詩左伝家語。有不合者焉。里仁者。居仁也。主皮。非貫革也。何有於我哉。謂謙辞也者。其説至於康衢之謡而窮焉。君子人与。君子人也。作問答解。亦至於戴記而悖焉。夷狄之有君。素以為絢兮。皆枉辞以従己之見焉。凡如此類。更僕何罄。
書き下し
且つ明徳・異端の如き、其の解豈に美ならざらんや。然れども詩・左伝・家語に至りては、合はざる者有り。里仁なる者は、仁に居るなり。主皮は、革を貫くに非ざるなり。「何か我に有らんや」、謙辞なりと謂ふ者は、其の説康衢の謡に至りて窮す。「君子人か、君子人なり」、問答と作して解するも、亦た戴記に至りて悖る。「夷狄の君有る」「素以て絢と為す」、皆辞を枉げて以て己の見に従ふ。凡そ此の類の如き、更僕するも何ぞ罄くさん。
現代語訳
たとえば「明徳」や「異端」について、その解釈はなんと見事ではないか。しかし『詩経』『左伝』『孔子家語』に照らすと合わないところがある。「里仁」とは仁に身を置くことである。「主皮」(射は皮を主とせず)は、革を射抜くことではない。「何か我に有らんや」を謙遜の言葉だとする説は、康衢の謡(堯の時代に民が歌ったという歌)に至って行き詰まる。「君子人か、君子人なり」を問答として解するのも、『礼記』(戴記)に照らすと食い違う。「夷狄の君有る」「素以て絢と為す」の解も、みな言葉をねじ曲げて自分の見解に従わせたものである。こうした類は、給仕を何度交替させても語り尽くせないほどである。
解説
この章句が説くこと
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