徂徠先生答問書 / 卷下
一武未盡善と申事は、樂記にて濟候事に候。韶武とこそ被仰候へ、舜武とは不被仰候。堯舜湯武の優劣は不論事に候。後世儒者舌の長き儘に聖人の上を評し、無益の至にて、而又其害甚敷候。一人未有自致者必也親喪乎と有之候は、禮を不假而自致者喪親の哀情計なりと申事に候。論語一部禮を說候所多候。後儒は聖人の敎專ら禮樂なる事を不存候故解違候。
新字:一武未尽善と申事は、楽記にて済候事に候。韶武とこそ被仰候へ、舜武とは不被仰候。堯舜湯武の優劣は不論事に候。後世儒者舌の長き儘に聖人の上を評し、無益の至にて、而又其害甚敷候。一人未有自致者必也親喪乎と有之候は、礼を不仮而自致者喪親の哀情計なりと申事に候。論語一部礼を説候所多候。後儒は聖人の教専ら礼楽なる事を不存候故解違候。
書き下し
一武未尽善と申事は、楽記にて済候事に候。韶武とこそ被仰候へ、舜武とは不被仰候。堯舜湯武の優劣は不論事に候。後世儒者舌の長き儘に聖人の上を評し、無益の至にて、而又其害甚敷候。一人未有自致者必也親喪乎と有之候は、礼を不仮而自致者喪親の哀情計なりと申事に候。論語一部礼を説候所多候。後儒は聖人の教専ら礼楽なる事を不存候故解違候。
現代語訳
一、「武は未だ善を尽くさず」というのは、『楽記』で分かることです。「韶・武」とこそおっしゃっていますが、「舜・武」とはおっしゃっていません。堯・舜と湯王・武王の優劣は論じないことです。後世の儒者は舌の長いままに聖人の上を評して、無益の極みであり、しかもその害もはなはだしいのです。一、「人未だ自ら致す者有らず、必ずや親の喪か」とあるのは、礼を借りずに自ら尽くすのは親を喪った哀情だけだ、ということです。『論語』一部には礼を説いた所が多いのです。後世の儒者は、聖人の教えがもっぱら礼楽であることを知らないので、解釈を誤っています。
解説
この章句が説くこと
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『論語と算盤』処世と信条・士魂商才世の人は漢学の教うるところは禅譲討伐を是認しているから、我が国体に合しないというが、それは一を知って二を知らざる説である。孔子の『謂韶、尽善矣、又尽美也、謂武、尽美矣、未尽善也』とあるのを見ても明らかであって、韶という音楽は堯舜のことを述べたので、とにかく堯は舜の徳を悦んで位を譲ったのである。ゆえにその事を歌った音楽は実に善美を尽くしている。しかるに武という楽は武王の事を歌ったので、たとえ武王は徳があったにせよ、兵力をもって革命を起こし位に登ったのであるから、したがってその音楽も善を尽くさないと言っておられる。孔子の意では、革命ということは望ましいものでないということが充分に看ることが出来る。何でも人を論ずるにはその時代というものを考えなければならぬ。孔子は周の代の人であるから、充分に露骨に周代の悪き事を論ぜられないから、美を尽くせり未だ善を尽くさずというように婉曲に言っているのである。
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論語・八佾篇子、韶を謂う、「美を尽くせり、又善を尽くせり。」武を謂う、「美を尽くせり、未だ善を尽くさざるなり。」
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『徂徠先生答問書』卷下一慎終追遠とは、先王制礼の意を説候語に候。今日受用の為の語にては無之候。一御文章とも被遣候。皆宋学に候故直し可進様無御座候。一蘐園随筆は、不佞未熟の時の書に候。御用被成間敷候。仁斎闇斎などの書必々御覧被成間敷候。只々末を御捨候て本を御学候事専要に候。以上。
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『徂徠先生答問書』卷下一申残候趣有之候故又申入候。惣て学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章に候。能文章を会得して、書籍の儘済し候て我意を少も雑え不申候得ば、古人の意は、明に候。聖人の道は聖人の教法に順はずして可得様曽て無之候。其教法は書籍に有之候故つまる所是又文章に帰し申候。然る所文章も字義も時代に随て致展転候所眼の付所にて候に、後世儒者我物ずきを立候故、道徳は尊く文章は卑き事なりと思ひとり、文章を軽看致し候より、右の所に心付不申、右の所に心付不申候故、古聖人の教法見え分れ不申、我知見にて聖人の道を会得せんとする故皆自己流に罷成候。宋学の輩は識見益鄙陋にて、程朱陽明吾国にて闇斎仁斎等の末師を信ずる事孔子よりも甚敷候。たとへて申候はゞ、仏者の輩釈迦の説をば不用して、深く法然日蓮を信ずるがごとくに候。教に古今なく、道にも古今なく候。聖人の道にて今日の国天下も治り候事に候。外に仕形は無之候。聖人の教にて今日の人も才徳を成就候事に候。是又外に仕形無之候。
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『徂徠先生答問書』卷下扨又天下国家を治むる仕様を道といふと申候事御合点不参候由、是又宋学に御泥候故左も可有之候。先我道之元祖は堯舜也。堯舜は天子なり。夫より後聖人と称し候は禹湯文武周公也。何れも皆天下国家を治たる人なり。孔子は此道を伝へ玉へる人也。故に聖人の道は専天下国家を治むる道にて、礼楽刑政の類皆道なり。論語に子游武城宰として絃歌の声したるを孔子笑玉へば、子游君子学道則愛人小人学道則易使と被申候を御覧候へ。分明に楽の事を道と被申候。孔門の直弟にて名目の違は有間敷候。宋儒の註解にては、此道字埓明不申候故、朱子は黙して過され候。五倫といふ物も、是を立ざれば天下は平治ならぬ事故、聖人の立玉へるにて候。聖人の道は、至極の所天下国家平治の為に建立なされたる事に候。修身事の有之候も、身修まらざれば、下尊信せずして道行はれざるゆへ、君子脩身候。今日の学者も此所より見識を生じて、聖人の道は天下国家を治むる道といふ所より見開候へば六経は掌を指がごとく候。
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『徂徠先生答問書』卷下右只今迄の思召と替候故、定て驚愕可被成候。依之、子細を申進候。吾道の元祖は堯舜に候。堯舜は人君にて候。依之聖人の道は専ら国天下を治め候道に候。道と申候は、事物当行の理にても無之、天地自然の道にても無之、聖人の建立被成候道にて、道といふは国天下を治候仕様に候。扨聖人の教は専礼楽にて風雅文采なる物に候。心法理窟の沙汰は曽て無之事に候。宋儒以来わざを捨て理窟を先とし風雅文采をはらひ捨て野鄙に罷成候。天子之道なる事を忘れ候より、専道理を説候て人を喩候事を第一に仕候。是より理非邪正の争盛に罷成候。議論一定してかたの極まり候事に成候故、何程学候ても知見の進み広まる事は曽て無之、只片口にぜうのこわき事に罷成候。是皆教法の違にて候。孔門の教とは天地雲泥に候。扨は文章も宋儒の文章は真にてかき候仮名物に候故、文章も鄙俚浅露に罷成候。如此の書籍に心を染候得ば、漢以前三代の書籍は済不申物に候。此差別当分は御合点参間敷候得ば、申進候も不入事の様に候得共御深志故申進候。
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