弁名 / 聖
後儒有謂湯武非聖人者。是無忌憚之甚者也。其說本於誤解孔子武未盡善。孟子性之身之焉。殊不知孔子語樂而未及舜武之德。孟子但言堯舜生知。而湯武乃學堯舜之道。以成其德耳。豈優劣之論乎。
新字:後儒有謂湯武非聖人者。是無忌憚之甚者也。其説本於誤解孔子武未尽善。孟子性之身之焉。殊不知孔子語楽而未及舜武之徳。孟子但言堯舜生知。而湯武乃学堯舜之道。以成其徳耳。豈優劣之論乎。
書き下し
後儒に湯武は聖人に非ずと謂ふ者有り。是れ忌憚無きの甚しき者なり。其の説は、孔子の「武は未だ善を尽くさず」と、孟子の「之を性にす、之を身にす」とを誤解するに本づく。殊に知らず、孔子は楽を語りて未だ舜・武の徳に及ばず、孟子は但だ堯舜は生知にして、湯武は乃ち堯舜の道を学びて以て其の徳を成すと言ふのみなるを。豈に優劣の論ならんや。
現代語訳
後世の儒者には、殷の湯王や周の武王は聖人ではないと言う者がいる。これは慎みを知らぬことはなはだしい。その説は、孔子の「武(武王の音楽)はまだ善を尽くしていない」という言葉と、孟子の「(堯舜は)これを本性として持ち、(湯武は)これを身につけた」という言葉を誤解したことに基づく。孔子は音楽について語っただけで舜や武王の徳には触れていないし、孟子もただ堯舜は生まれながらに知り、湯武は堯舜の道を学んでその徳を完成させたと言っただけであることを、まったく知らないのだ。どうしてこれが優劣の議論であろうか。
解説
朱子学の系統には、湯王・武王を堯舜より一段劣る存在とみなす議論があった。徂徠はその根拠とされた『論語』の「武は未だ善を尽くさず」と『孟子』の「性之・身之」が、そもそも聖人の優劣を論じた言葉ではないと指摘する。前者は音楽の評、後者は徳の得方の違いを言うにすぎない。文脈を離れた一句を評価の物差しに転用すると、偉大な先人すら格下げしてしまう。社内でも、誰かの一言を切り取って人物評に使う危うさは同じである。
この章句が説くこと
聖人湯武孔子孟子学問誤読
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