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弁名 / 聖

夫聖人聰明睿智之德受諸天。豈可學而至乎。其德之神明不測。豈可得而窺乎。故古之學而爲聖人者。唯湯武孔子耳。故古之善學聖人者。必遵聖人之敎。禮樂以成德。子思所言是已。孟子雖言不及禮樂然其所謂人可以爲堯舜者。亦唯謂服堯之服。誦堯之言。行堯之行而已矣。不必求爲聖人也。後儒乃不察二子所以言之意。妄意求爲聖人。於是乎欲詳論聖人之德以爲學者之標準。遂有聖人之心渾然天理陰陽合德不偏不倚之說。是其操心之銳。以聖智自處。喜測其不可測者而以不可學者强之人人。其究必立德之至者以律之。則其優劣古聖人之德亦勢之所必至也。其說雖根於孟子。然所附益豈小小哉。要之不學之過也已。豈不悲乎。

新字:夫聖人聰明睿智之徳受諸天。豈可学而至乎。其徳之神明不測。豈可得而窺乎。故古之学而為聖人者。唯湯武孔子耳。故古之善学聖人者。必遵聖人之教。礼楽以成徳。子思所言是已。孟子雖言不及礼楽然其所謂人可以為堯舜者。亦唯謂服堯之服。誦堯之言。行堯之行而已矣。不必求為聖人也。後儒乃不察二子所以言之意。妄意求為聖人。於是乎欲詳論聖人之徳以為学者之標準。遂有聖人之心渾然天理陰陽合徳不偏不倚之説。是其操心之鋭。以聖智自処。喜測其不可測者而以不可学者強之人人。其究必立徳之至者以律之。則其優劣古聖人之徳亦勢之所必至也。其説雖根於孟子。然所附益豈小小哉。要之不学之過也已。豈不悲乎。

書き下し

夫れ聖人聡明睿智の徳は諸を天に受く。豈に学びて至るべけんや。其の徳の神明にして測られざる、豈に得て窺ふべけんや。故に古の学びて聖人と為る者は、唯だ湯・武・孔子のみ。故に古の善く聖人を学ぶ者は、必ず聖人の教に遵ひ、礼楽以て徳を成す。子思の言ふ所是れのみ。孟子は言、礼楽に及ばずと雖も、然れども其の所謂「人以て堯舜と為るべし」とは、亦た唯だ「堯の服を服し、堯の言を誦し、堯の行を行ふのみ」を謂ふ。必ずしも聖人と為るを求めざるなり。後儒乃ち二子の之を言ふ所以の意を察せず、妄りに聖人と為るを求めんと意ふ。是に於てか聖人の徳を詳論して以て学者の標準と為さんと欲し、遂に聖人の心は渾然たる天理、陰陽徳を合はせ、偏らず倚らずの説有り。是れ其の心を操ること鋭く、聖智を以て自ら処り、其の測るべからざる者を測ることを喜びて、学ぶべからざる者を以て之を人人に強ふ。其の究め必ず徳の至れる者を立てて以て之を律す。則ち其の古聖人の徳を優劣するも亦た勢の必ず至る所なり。其の説は孟子に根ざすと雖も、然れども附益する所豈に小小ならんや。之を要するに学ばざるの過のみ。豈に悲しからずや。

現代語訳

聖人の聡明で深い知恵の徳は天から授かったものである。どうして学んで至れようか。その徳の霊妙で測りがたいところを、どうしてうかがい知ることができようか。だから古に学んで聖人となった者は、湯王・武王・孔子だけである。それゆえ古の、聖人をよく学んだ者は、必ず聖人の教えに従い、礼楽によって徳を成した。子思が言ったのはまさにこのことである。孟子は礼楽に言及しなかったが、その「人は誰でも堯舜になれる」という言葉も、ただ「堯の服を着、堯の言葉を唱え、堯の行いを行うだけだ」という意味で、必ずしも聖人になることを求めたのではない。後世の儒者は二人がそう言った意図を察せず、みだりに聖人になろうと考えた。そこで聖人の徳を詳しく論じて学ぶ者の標準にしようとし、ついに「聖人の心は渾然とした天理であり、陰陽と徳を合わせ、偏らず傾かない」という説が生まれた。これは心の持ち方が鋭すぎ、自分を聖智の立場に置き、測れないものを測ることを好み、学べないものを人々に強いるものである。その行き着く先は、必ず最高の徳を立てて人を律することになり、古の聖人の徳に優劣をつけるのも、勢いとして必ずそうなる。その説は孟子に根ざすとはいえ、付け加えたものは小さくない。要するに学ばなかった過ちである。悲しいことではないか。

解説

朱子学は「聖人学んで至るべし」を掲げ、聖人の心を天理そのものと描いて学ぶ者の目標とした。徂徠はこれを、天賦の測れない徳を万人に強いる無理な要求だと退ける。古人が学んだのは聖人の教え、つまり礼楽という型であり、それに従ううちに各自の徳が成る。孟子の「堯舜と為るべし」も、堯の服を着、堯の言を誦すという型の実践を言うにすぎない。完璧な人格を目標にする研修より、良い型を身につけさせる研修のほうが人を確実に育てるのと同じである。

この章句が説くこと

聖人礼楽学問朱子学天理型

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