弁名 / 文質體用本末
有對武言者。武謂戡亂。而禮樂之治在平日。故對言之。非若後世岐文武二之者比。如論語。夫子之文章。及堯煥乎其有文章。皆指禮樂言之。是聖人之功業也。質有不對文言之者。如曰質直好義。亦謂其爲人慤已。
新字:有対武言者。武謂戡乱。而礼楽之治在平日。故対言之。非若後世岐文武二之者比。如論語。夫子之文章。及堯煥乎其有文章。皆指礼楽言之。是聖人之功業也。質有不対文言之者。如曰質直好義。亦謂其為人慤已。
書き下し
武に対して言ふ者有り。武は戡乱を謂ひ、而して礼楽の治は平日に在り、故に対して之を言ふ。後世の文武を岐ちて之を二にする者の比に非ず。論語の「夫子の文章」、及び「堯、煥乎として其れ文章有り」の如き、皆礼楽を指して之を言ふ。是れ聖人の功業なり。質に文に対せずして之を言ふ者有り。「質直にして義を好む」と曰ふが如き、亦た其の為人の慤なるを謂ふのみ。
現代語訳
武に対して言う場合がある。武とは乱を平定することをいい、礼楽による統治は平時にある。だから対にして言うのである。後世のように文と武を分けて二つのものとするのとは比べものにならない。『論語』の「先生(孔子)の文章」や、「堯は輝かしくも文章がある」というのは、どちらも礼楽を指して言っている。これは聖人の功業である。質には、文と対にせずに言う場合もある。「質直で義を好む」というのは、その人柄が誠実で飾り気がないことをいうにすぎない。
解説
文が武と対になる場合を、徂徠は戦乱を鎮める武と平時の礼楽の治という、時の違いとして説明する。文武を別々の人間類型や価値に分ける後世の考えとは違い、一つの統治の二つの局面なのである。また「文章」も文筆ではなく礼楽、つまり聖人の功業を指すと確かめる。最後に、質が文と対にならず、単に飾らない人柄をいう用例も補う。危機対応と平時の運営を別の組織文化として対立させず、一つの経営の二局面として設計する発想にも通じる。
この章句が説くこと
文武礼楽文章質聖人
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