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論語と算盤 / 処世と信条・士魂商才

世の人は漢学の教ふる所は禅譲討伐を是認して居るから、我が国体に合しないといふが、そは一を知つて二を知らざる説である、孔子の『謂韶、尽善矣、又尽美也、謂武、尽美矣、未尽善也』とあるのを見ても明かであつて、韶といふ音楽は堯舜のことを述べたので、兎に角堯は舜の徳を悦んで位を譲つたのである、故に其事を歌つた音楽は実に善美を尽して居る、然るに武といふ楽は武王の事を歌つたので、たとへ武王は徳があつたにせよ、兵力を以て革命を起し位に登つたのであるから、従つて其の音楽も善を尽さないと言つて居られる、孔子の意では、革命といふことは望ましいものでないと云ふことが充分に看ることが出来る、何でも人を論ずるには其の時代といふものを考へなければならぬ、孔子は周の代の人であるから、充分に露骨に周代の悪き事を論ぜられないから、美を尽せり未だ善を尽さずと云ふやうに婉曲に言つて居るのである、

書き下し

世の人は漢学の教うるところは禅譲討伐を是認しているから、我が国体に合しないというが、それは一を知って二を知らざる説である。孔子の『謂韶、尽善矣、又尽美也、謂武、尽美矣、未尽善也』とあるのを見ても明らかであって、韶という音楽は堯舜のことを述べたので、とにかく堯は舜の徳を悦んで位を譲ったのである。ゆえにその事を歌った音楽は実に善美を尽くしている。しかるに武という楽は武王の事を歌ったので、たとえ武王は徳があったにせよ、兵力をもって革命を起こし位に登ったのであるから、したがってその音楽も善を尽くさないと言っておられる。孔子の意では、革命ということは望ましいものでないということが充分に看ることが出来る。何でも人を論ずるにはその時代というものを考えなければならぬ。孔子は周の代の人であるから、充分に露骨に周代の悪き事を論ぜられないから、美を尽くせり未だ善を尽くさずというように婉曲に言っているのである。

現代語訳

世間の人は、漢学の教えは禅譲や武力による討伐を是認しているから、わが国の国体に合わないと言うが、それは一を知って二を知らない説である。孔子が「韶の楽を評して、善を尽くし、また美を尽くしている、と言い、武の楽を評して、美を尽くしているが、まだ善を尽くしていない、と言った」とあるのを見ても明らかである。韶という音楽は堯・舜のことを述べたもので、ともかく堯は舜の徳を喜んで位を譲ったのである。だからそのことを歌った音楽は、まことに善美を尽くしている。ところが武という音楽は周の武王のことを歌ったもので、たとえ武王に徳があったにせよ、兵力によって革命を起こして位に就いたのだから、その音楽も善を尽くしていない、と言われているのである。孔子の考えでは、革命というものは望ましくない、ということが十分に見て取れる。何事でも人を論じるには、その時代というものを考えなければならない。孔子は周の時代の人であるから、あまり露骨に周の悪いところを論じることができない。だから、美は尽くしているがまだ善は尽くしていない、というように婉曲に言っているのである。

解説

漢学は禅譲や放伐(武力による王朝交代)を認めるから日本の国体に合わない、という当時の批判に渋沢が答える段である。引かれるのは論語八佾篇の「韶を謂う、美を尽くせり、又善を尽くせり。武を謂う、美を尽くせり、未だ善を尽くさず」。韶は堯から舜への禅譲を、武は武王が殷を討った革命を題材にした楽である。孔子は武の楽を美しいとしながら善ではないと評した。渋沢はそこに、孔子自身が武力革命を望ましくないと見ていた証拠を読み、周の世の人である孔子は露骨に言えず婉曲に述べたのだと解く。国体という語は明治・大正期の言葉で、天皇を中心とする国のあり方を指す。人を論じるにはその時代を考えよ、という渋沢の言葉は、古典を読む側にもそのまま当てはまる。一句を切り取って断じる前に、語り手の置かれた立場を見ることである。

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