徂徠先生答問書 / 卷下
右只今迄の思召と替候故、定て驚愕可被成候。依之、子細を申進候。吾道の元祖は堯舜に候。堯舜は人君にて候。依之聖人の道は專ら國天下を治め候道に候。道と申候は、事物當行の理にても無之、天地自然の道にても無之、聖人の建立被成候道にて、道といふは國天下を治候仕樣に候。扨聖人の敎は專禮樂にて風雅文采なる物に候。心法理窟の沙汰は曾て無之事に候。宋儒以來わざを捨て理窟を先とし風雅文采をはらひ捨て野鄙に罷成候。天子之道なる事を忘れ候より、專道理を說候て人を喩候事を第一に仕候。是より理非邪正の爭盛に罷成候。議論一定してかたの極まり候事に成候故、何程學候ても知見の進み廣まる事は曾て無之、只片口にぜうのこわき事に罷成候。是皆敎法の違にて候。孔門の敎とは天地雲泥に候。扨は文章も宋儒の文章は眞にてかき候假名物に候故、文章も鄙俚淺露に罷成候。如此の書籍に心を染候得ば、漢以前三代の書籍は濟不申物に候。此差別當分は御合點參間敷候得ば、申進候も不入事の樣に候得共御深志故申進候。
新字:右只今迄の思召と替候故、定て驚愕可被成候。依之、子細を申進候。吾道の元祖は堯舜に候。堯舜は人君にて候。依之聖人の道は専ら国天下を治め候道に候。道と申候は、事物当行の理にても無之、天地自然の道にても無之、聖人の建立被成候道にて、道といふは国天下を治候仕様に候。扨聖人の教は専礼楽にて風雅文采なる物に候。心法理窟の沙汰は曽て無之事に候。宋儒以来わざを捨て理窟を先とし風雅文采をはらひ捨て野鄙に罷成候。天子之道なる事を忘れ候より、専道理を説候て人を喩候事を第一に仕候。是より理非邪正の争盛に罷成候。議論一定してかたの極まり候事に成候故、何程学候ても知見の進み広まる事は曽て無之、只片口にぜうのこわき事に罷成候。是皆教法の違にて候。孔門の教とは天地雲泥に候。扨は文章も宋儒の文章は真にてかき候仮名物に候故、文章も鄙俚浅露に罷成候。如此の書籍に心を染候得ば、漢以前三代の書籍は済不申物に候。此差別当分は御合点参間敷候得ば、申進候も不入事の様に候得共御深志故申進候。
書き下し
右只今迄の思召と替候故、定て驚愕可被成候。依之、子細を申進候。吾道の元祖は堯舜に候。堯舜は人君にて候。依之聖人の道は専ら国天下を治め候道に候。道と申候は、事物当行の理にても無之、天地自然の道にても無之、聖人の建立被成候道にて、道といふは国天下を治候仕様に候。扨聖人の教は専礼楽にて風雅文采なる物に候。心法理窟の沙汰は曽て無之事に候。宋儒以来わざを捨て理窟を先とし風雅文采をはらひ捨て野鄙に罷成候。天子之道なる事を忘れ候より、専道理を説候て人を喩候事を第一に仕候。是より理非邪正の争盛に罷成候。議論一定してかたの極まり候事に成候故、何程学候ても知見の進み広まる事は曽て無之、只片口にぜうのこわき事に罷成候。是皆教法の違にて候。孔門の教とは天地雲泥に候。扨は文章も宋儒の文章は真にてかき候仮名物に候故、文章も鄙俚浅露に罷成候。如此の書籍に心を染候得ば、漢以前三代の書籍は済不申物に候。此差別当分は御合点参間敷候得ば、申進候も不入事の様に候得共御深志故申進候。
現代語訳
右は今までのお考えと違いますので、きっと驚かれるでしょう。それで子細を申し上げます。我が道の元祖は堯・舜です。堯・舜は君主です。だから聖人の道はもっぱら国天下を治める道です。道というのは、事物の当然行うべき理でもなく、天地自然の道でもなく、聖人がお立てになった道であって、道とは国天下を治める仕方のことです。さて聖人の教えはもっぱら礼楽であって、風雅で文采のあるものです。心法や理屈の沙汰は決してありません。宋儒以来、わざを捨てて理屈を先にし、風雅文采を払い捨てて野卑になりました。天子の道であることを忘れたことから、もっぱら道理を説いて人を諭すことを第一にしました。これから理非邪正の争いが盛んになりました。議論が一定して型が極まってしまうので、どれほど学んでも知見が進み広まることは決してなく、ただ一方的に強情になるばかりです。これはみな教え方の違いです。孔子の門の教えとは天地雲泥の差です。さらに文章も、宋儒の文章は漢字で書いた仮名文のようなものですから、文章も卑俗で浅はかになりました。このような書籍に心を染めると、漢以前の三代の書籍は理解できません。この区別は当分ご合点がいかないでしょうから、申し上げても無用のようですが、ご熱意ゆえに申し上げます。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『童子問』卷上問ふ、易知易行・万世不易の理の、実に至極為ることは、既に命を聞くことを得たり。然れども心中猶ほ未だ釈然たること能はず。願はくは易く暁りやすきの語を以て、申ねて諭を垂れよと。曰く、人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行ふ、何の難知難行か之れ有らん。夫れ人の霊を以てすと雖も、然れども羽ある者の翔り、鱗ある者の潜るが若くなること能はざる者は、其の性異なればなり。堯の服を服し、堯の行ひを行ひ、堯の言を誦するに於ては、則ち復た甚だ難き者無し。其の道同じければなり。故に孟子曰く、夫れ道は一のみと。若し夫れ人倫を外にして道を求むる者は、猶ほ風を捕へ影を捉ふるがごとく、必ず得べからざるなり。故に道を知る者は、必ず之を邇きに求む。其の道を以て高しと為し、遠しと為し、企て及ぶべからずと為す者は、皆道の本然に非ず、自ら惑ふの致す所なり。
-
『弁名』理氣人欲包犠氏網罟を為る、蓋し諸を離に取る、神農氏耒耜を為る、蓋し諸を益に取るが如し。易は本と象を取りて器を作るの義有り。故に爾か云ふ。形而上は、器未だ形を成さざる以前、唯だ易の道有るのみを謂ふ。其の形を成すの後に至りて、始めて其の器有り。皆器を制するを主として之を言ふ。下文遂に曰く、「化して之を裁する、之を変と謂ふ。推して之を行ふ、之を通と謂ふ。挙げて之を天下の民に措く、之を事業と謂ふ」と。是れ皆易を賛するの言なり。道器変通事業は、皆易を以て之を言ふのみ。上章に「戸を闔づる之を坤と謂ひ、戸を闢く之を乾と謂ふ。一たび闔ぢ一たび闢く之を変と謂ひ、往来窮まらざる之を通と謂ふ。見はるる乃ち之を象と謂ひ、形はるる乃ち之を器と謂ふ。制して之を用ふる之を法と謂ひ、利用出入して民咸之を用ふる之を神と謂ふ」と曰ふが如きも、是れ又た道器を以て対言せず。其の義以て見るべきのみ。豈に大謬に非ずや。
-
『慎思録』巻之四術者の陋なり。陰陽を指して道と為すは、猶ほ天地を指して道と為し、聖人を指して道と為すがごとし。此れ道の在る所を以て言ふ。其の実、天地陰陽は即ち是れ道の存する所にして、還た是れ道中に在る所の物なり。蓋し道を以て主と為して之を言へば、則ち天地万物は皆是れ道中の物なり。天地万物を以て主と為して之を言へば、則ち道は天地万物の中に在りて、之が主為る者なり。陰陽の如きは、則ち又天地万物の比に非ず。同異離合を以て之を言ふべからず。故に易に陰陽を以て道を言ふは、此を以てなり。
-
『弁名』理氣人欲仁斎先生曰く、「道は行ふ所を以て言ふ、活字なり。理は存する所を以て言ふ、死字なり。聖人は道を見ること実なり、故に其の理を説くや活なり。老氏は道を見ること虚なり、故に其の理を説くや死なり」と。又た曰く、「道は本と活字、其の生生化化の妙を形容する所以なり。理の字の若きは本と死字、玉に従ひ里に従ふ、玉石の文理を謂ふ。以て事物の条理を形容すべくして、以て天地生生化化の妙を形容するに足らず」と。此等の議論、皆痴人の夢を説くが如し。
-
『弁名』道小人の道長ずと曰ひ、戎狄の道と曰ふ者有り。皆其の由る所を以て俗を成し、自ら一道有るに似たり。故に之を言ふ。善人の道と曰ひ、父の道を改むること無しと曰ふ者有り。亦た其の由る所を言ふのみ。必ずしも先王の道ならず。凡そ其の意此を以て道と為して之に由る者なり。是の道や何ぞ以て臧しとするに足らんと曰ふ者有り。詩書礼楽は、皆先王の道なり。故に一言半句と雖も亦た称して道と為すのみ。
-
『慎思録』巻之三聖人の道は、本自ら分明なり。故に夫婦の愚も、以て与り知るべし。本自ら簡易なり。故に夫婦の不肖も、以て能く行ふべし。然れども世に之を知り之を行ふ者鮮きは、何ぞや。蓋し教無く習無きに因るなり。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る