徂徠先生答問書 / 卷中
君子の道も是を土臺といたし候事は、君子の道は仁にて候。仁は國天下の民を安じ候事にて、もと人の上たるものの道にて候。孝弟忠信中庸の德行は、分に相應にたれにてもなり申候事にて、上たる人ばかりの道にては無御座候。孝は父母を養ひ安んずる道にて候。弟は兄弟を養ひ安んずる道にて候。忠は君につかへて君を安んじ養ふ道にて候。信は朋友を安んじ養ふ道にて候。されば何れも皆仁の小わりと可被思召候。たゞ人々の量の大小御座候故、大量の人ならでは仁をわが任といたし候事なりがたく候。量の大小にかゝはらず、たれにても仁の心をおこなひ候事は、孝弟忠信中庸の德行と可被思召候。是により孝弟忠信を土臺といたし、是よりのぼり候へば、君子の仁もよく相應いたし、齟齬いたし候所無御座候。若又孝弟忠信を土臺といたさず候て、國天下を安んずるわざをのみ求め候はゞ、却て邪術にはせ候あやまりも出來可申事故、子思などの書を作り其ふせぎをいたされ候事にて御座候。たゞ量の大小に隨ひ敎の名目は別にて候得共、道は一箇の道にて更に別の道は無御座候。よく〳〵御工夫可被成候。以上。
新字:君子の道も是を土台といたし候事は、君子の道は仁にて候。仁は国天下の民を安じ候事にて、もと人の上たるものの道にて候。孝弟忠信中庸の徳行は、分に相応にたれにてもなり申候事にて、上たる人ばかりの道にては無御座候。孝は父母を養ひ安んずる道にて候。弟は兄弟を養ひ安んずる道にて候。忠は君につかへて君を安んじ養ふ道にて候。信は朋友を安んじ養ふ道にて候。されば何れも皆仁の小わりと可被思召候。たゞ人々の量の大小御座候故、大量の人ならでは仁をわが任といたし候事なりがたく候。量の大小にかゝはらず、たれにても仁の心をおこなひ候事は、孝弟忠信中庸の徳行と可被思召候。是により孝弟忠信を土台といたし、是よりのぼり候へば、君子の仁もよく相応いたし、齟齬いたし候所無御座候。若又孝弟忠信を土台といたさず候て、国天下を安んずるわざをのみ求め候はゞ、却て邪術にはせ候あやまりも出来可申事故、子思などの書を作り其ふせぎをいたされ候事にて御座候。たゞ量の大小に随ひ教の名目は別にて候得共、道は一箇の道にて更に別の道は無御座候。よく〳〵御工夫可被成候。以上。
書き下し
君子の道も是を土台といたし候事は、君子の道は仁にて候。仁は国天下の民を安じ候事にて、もと人の上たるものの道にて候。孝弟忠信中庸の徳行は、分に相応にたれにてもなり申候事にて、上たる人ばかりの道にては無御座候。孝は父母を養ひ安んずる道にて候。弟は兄弟を養ひ安んずる道にて候。忠は君につかへて君を安んじ養ふ道にて候。信は朋友を安んじ養ふ道にて候。されば何れも皆仁の小わりと可被思召候。たゞ人々の量の大小御座候故、大量の人ならでは仁をわが任といたし候事なりがたく候。量の大小にかゝはらず、たれにても仁の心をおこなひ候事は、孝弟忠信中庸の徳行と可被思召候。是により孝弟忠信を土台といたし、是よりのぼり候へば、君子の仁もよく相応いたし、齟齬いたし候所無御座候。若又孝弟忠信を土台といたさず候て、国天下を安んずるわざをのみ求め候はゞ、却て邪術にはせ候あやまりも出来可申事故、子思などの書を作り其ふせぎをいたされ候事にて御座候。たゞ量の大小に随ひ教の名目は別にて候得共、道は一箇の道にて更に別の道は無御座候。よく〳〵御工夫可被成候。以上。
現代語訳
君子の道もこれを土台とするというのは、君子の道は仁だからです。仁は国や天下の民を安んずることで、もともと人の上に立つ者の道です。孝弟忠信の中庸の徳行は、分に応じて誰でもできることで、上に立つ人だけの道ではございません。孝は父母を養い安んずる道です。弟は兄弟を養い安んずる道です。忠は君に仕えて君を安んじ養う道です。信は朋友を安んじ養う道です。ですから、どれもみな仁の小割り(小分け)だとお考えください。ただ人々に器量の大小がありますので、大きな器量の人でなければ、仁を自分の任とすることは難しいのです。器量の大小にかかわらず、誰でも仁の心を行うことは、孝弟忠信の中庸の徳行だとお考えください。これにより孝弟忠信を土台とし、ここから登れば、君子の仁もよく相応し、食い違うところはございません。もしまた孝弟忠信を土台とせず、国天下を安んずる業ばかりを求めれば、かえって邪術に走る誤りも出てくることですので、子思などが書(『中庸』)を作ってその防ぎをされたのでございます。ただ器量の大小に従って教えの名目は別ですが、道は一つの道で、ほかに別の道はございません。よくよくご工夫ください。以上。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『徂徠先生答問書』卷中一孝行の儀御尋に候。成程聖人の教には孝弟忠信を中庸の徳行と名付け、是を貴賤によらず人たる者の勤め行ふべき事といたし申候。君子の道も、是を土台にいたし不申候得ば、高きにのぼるに楷梯なきがごとくに御座候。舜の契を司徒の官になされ、五倫を教へしめ給ふも、孔子の民に中庸の徳なき事を御なげき被成候も同意にて御座候。孝は父母によくつかへ候事、弟は兄長によくつかへ候事、忠は君につかゆるにても、又たれにても、人のためになし候事をば我身の事のごとくに如在なく身にかけ申候事に候。信と申候は、朋友其外あまねくの人にまじはり申候には言語を慎み偽り違候事なきやうに致し候を申候。是にて父母兄弟君臣朋友の道こもり申候故、五倫と申候も、中庸と申候も、孝弟忠信と申候も、ひとつ事にて御座候。
-
『翁問答』上卷之本大槪を論ずるに、先五倫を以ていへば、親を愛敬するが感通の根本なる故に、本分の名号を改めず、孝行と名付て、扨それより感通の光景に因て、名を立て教を示し給ことなり、二心なく君を愛敬するを忠と名付く、礼儀正しく臣下を愛敬するを仁と名付く、能く教へて子を愛敬するを慈と名付く、和順にして兄を愛敬するを悌と名付く、善をせめて弟を愛敬するを恵と名付く、正しき節を守りて夫を愛敬するを順と名付く、朋友を愛敬するを信と名付く、一身を以て云へば耳目の聰明、四肢の恭重、行住座臥の法則、皆愛敬の感通なり、如此親切なる道徳なれば、如何なる愚痴不肖の賤男賤女、五六歳の幼童迄も、能く知り能く行ひ、扨大至極の全体は聖人と雖共つくし難き物なり、誠に不二の要道、無双の重宝なれ共卞和が璧となりて、世俗の闇を照さゞる事なげかわしき事なるべし。
-
『大和俗訓』巻之一・為学上一学問の道は、極めて広大高妙にして深奥なり。しかれども其近き所は孝弟忠信の日用常行にあり。故にいかなる愚なる者も、此道をまなびやすく、知りやすく、行ひやすし。高遠にして、あやしく異なる道にはあらず。一古の聖人すら、猶師にしたがひて学び給ふ。況や今時の凡人、学ばずしては道を知りがたし。小芸だにも、師なく習なくしてはなしがたし。況や人の道は即天地の道にて、極めて大なるをや。学んでも、まなびやう悪しければ、道を知らず。学ばずして道を得んことは、万々此理なし。
-
論語・学而篇子夏曰く、「賢を賢として色に易え、父母に事えて能く其の力を竭くし、君に事えて能く其の身を致し、朋友と交わるに言いて信有らば、未だ学ばずと曰うと雖も、吾は必ず之を学びたりと謂わん。」
-
『五常訓』巻之二・仁之上仁の性にしたがへば、五倫を愛する道自ら行はる。中庸に、性にしたがふを道と云ふ、是なり。仁は性なり。五倫を愛するは道なり。天地より生れつきたる仁の性にしたがひて、五倫の道を行ふが、天地につかへ奉る孝にて、人の道なり。是即仁なり。人の道とする所、さらに此外に有るべからず。次に禽獣草木を愛するも、亦仁の内の事なり。天地は万物の父母なれば、人倫を愛し、次に万物を愛するも、亦天地につかふる道なり。
-
『弁名』孝悌孝弟忠信は、孔門蓋し之を中庸と謂ふ。其の甚だしくは高からず、人皆行ふべきの事為るを以てなり。故に先王の道を学ぶは、必ず孝弟より始む。諸を辟ふれば、高きに登るは必ず卑きよりし、遠きに行くは必ず邇きよりするがごとし。孟子曰く、「堯舜の道は孝弟のみ」と。是れ之の謂なり。其の以て仁賢の徳に馴致すべきを謂ふなり。然りと雖も、後儒論説を喜ぶこと甚しく、遂に仁孝を以て之を一にす。非なり。孝は自ら孝、仁は自ら仁。君子は一を挙げて以て百を廃するを悪む。仮使一孝にして足らば、則ち江革・王祥既に聖人為らん。故に孔子曰く、「行ひて余力有れば、則ち以て文を学べ」と。孝弟有りと雖も、学ばずんば未だ郷人たるを免れざるを言ふなり。是れ又学者の当に知るべき所なり。然りと雖も、周官の師氏、既に至徳・敏徳を立てて、以て一切を尽くすに足れども、更に孝徳を立てて以て之を教ふ。見るべし、它の不善有りと雖も、苟も孝徳有らば、則ち先王の取る所なるを。先王の孝を重んずること是の若きかな。
人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る