徂徠先生答問書 / 卷中
一疵物の使ひにくき由被仰下候。成程〳〵尤なる御不審と存候。人情世態に歷練不被成候故、其疵の害をなし候は、如何程の儀と申候程位御心に落不申候て、御氣遣ひ止不申にて御座候。御學問未熟にて小量なる故と可被思召候。此關打不透に候內は國の治はなり不申事に候。疵物と申候は、たとへばくせ馬のごとくに候。彼がくせを致し申候時の取納の仕樣合點不參候内は氣遣にて被乘不申候。是も尤には候得共、坐ながらに其取納の仕樣合點參る物にて無御座候。馬屋の者ばくらう抔に能くせ馬をのり候者有之候。一々に馬術鍛鍊致したるにても無御座候。又何程馬術鍛鍊いたし候共、馬も活物に候へばくせの程位たしかに知れ申候に極りたる物にても無御座候。只氣遣の心つよく御座候故、とにかくに埓明不申にて候。押こなしのりつけ候へば、左迄の氣遣はなき物と申候事合點參る物に候。三度も五度もなげられ候心得にて無御座候ては、くせ馬にはのられ不申候。
新字:一疵物の使ひにくき由被仰下候。成程〳〵尤なる御不審と存候。人情世態に歴練不被成候故、其疵の害をなし候は、如何程の儀と申候程位御心に落不申候て、御気遣ひ止不申にて御座候。御学問未熟にて小量なる故と可被思召候。此関打不透に候内は国の治はなり不申事に候。疵物と申候は、たとへばくせ馬のごとくに候。彼がくせを致し申候時の取納の仕様合点不参候内は気遣にて被乗不申候。是も尤には候得共、坐ながらに其取納の仕様合点参る物にて無御座候。馬屋の者ばくらう抔に能くせ馬をのり候者有之候。一々に馬術鍛錬致したるにても無御座候。又何程馬術鍛錬いたし候共、馬も活物に候へばくせの程位たしかに知れ申候に極りたる物にても無御座候。只気遣の心つよく御座候故、とにかくに埓明不申にて候。押こなしのりつけ候へば、左迄の気遣はなき物と申候事合点参る物に候。三度も五度もなげられ候心得にて無御座候ては、くせ馬にはのられ不申候。
書き下し
一疵物の使ひにくき由被仰下候。成程〳〵尤なる御不審と存候。人情世態に歴練不被成候故、其疵の害をなし候は、如何程の儀と申候程位御心に落不申候て、御気遣ひ止不申にて御座候。御学問未熟にて小量なる故と可被思召候。此関打不透に候内は国の治はなり不申事に候。疵物と申候は、たとへばくせ馬のごとくに候。彼がくせを致し申候時の取納の仕様合点不参候内は気遣にて被乗不申候。是も尤には候得共、坐ながらに其取納の仕様合点参る物にて無御座候。馬屋の者ばくらう抔に能くせ馬をのり候者有之候。一々に馬術鍛錬致したるにても無御座候。又何程馬術鍛錬いたし候共、馬も活物に候へばくせの程位たしかに知れ申候に極りたる物にても無御座候。只気遣の心つよく御座候故、とにかくに埓明不申にて候。押こなしのりつけ候へば、左迄の気遣はなき物と申候事合点参る物に候。三度も五度もなげられ候心得にて無御座候ては、くせ馬にはのられ不申候。
現代語訳
疵物は使いにくいとのこと、なるほどもっともなご不審と存じます。人情世態の経験を積んでおられないので、その疵が害をなすのがどれほどのことなのか、その程度がお心に落ちず、ご心配がやまないのです。ご学問が未熟で度量が小さいからだとお考えください。この関門を打ち抜かないうちは、国を治めることはできません。疵物というのは、たとえば癖馬のようなものです。その馬が癖を出したときの取り押さえ方が分からないうちは、心配で乗れません。これももっともですが、座ったままで取り押さえ方が分かるものではありません。馬屋の者や馬喰(ばくろう、馬の売買人)などに、癖馬をよく乗りこなす者がいます。いちいち馬術を鍛錬したわけでもありません。またどれほど馬術を鍛錬しても、馬も生き物ですから、癖の程度が確かに分かると決まったものでもありません。ただ心配する気持ちが強いので、どうにも埒が明かないのです。押さえつけて乗りこなしてしまえば、それほど心配はないものだと納得がいくものです。三度も五度も投げ落とされる覚悟でなければ、癖馬には乗れません。
解説
この章句が説くこと
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『徂徠先生答問書』卷下然共小量なる人は何事も皆我一己の上に思ひ取り、ちいさく構へを拵へて有之候故、己が智分に似せて一色にて事済候手近き術を好む物にて候。是によりて右の如なる小道共世界に出来り、是を好む人多御座候。是皆小量のなす所なれば、先王の代とてもかくのごときの類は可有之候。聖人とても如此の見識の世間にたえ候様に被成候事は不能事に候。又それ〳〵に相応の得益も有之候故、是をたやし可申御料簡にも有之間敷候。尤国天下を治め候に、右の類の小道を用ひ候は害多き事に候得ば、たゞ下たるものゝ一己の好みにいたし候半事は、己が職分家業をさへ怠らず、孝悌忠信をさへ失ひ不申候はゞ、不苦事に御座候。其外の一芸一能も、学得候へば、皆一種の器をなして、治国の役人のひとつにはなり申候。茶湯立花棋象戯蹴鞠の類は無益なる事に候へ共、是をするはやむに勝れりと申事の有之候。総じて人はたゞあられぬ物にて候。心のよせ所なければ悪事をする物にて候故、小量なる人は孝悌忠信にて候。其外の儀は好みに任せ候事候。此方より御定め候て、小量の人の心を安んじ候道をきはめ被置度思召候は無詮事に候。何もかも手前の流義に被成度様に相聞え候。此段国家を治め候て人の上に御立候には以の外成儀と存候。以上。
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『徂徠先生答問書』卷中一愚老が説に従ひ、疵物を御用ひ被成度思召候へ共、兎角人の長所御見え不被成との儀、成程〳〵左様可有御座候。得と御工夫不被成候故、御目覚兼候と存候。左候はゞ御自身の長所御存知被成候哉。此御段承度存候。是も大形御存知被成間敷候。加様に申候愚老も自身の長所は存知不申候。但学問の道は幼少より致修練候故、是計は長候と自負も有之候。其外の儀は致し見不申候故存知不申候。足下も指当候御役儀の上の御取捌、公辺の立廻り等の儀は定て御得物と存候。其外侍大将の職分、右の高坂弾正が如くに候哉。内藤修理に似申候哉。山県馬場が内何れか長所に候哉。此段決て御存知有間舖候。是にて御合点参り候事にて御座候。
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