徂徠先生答問書 / 卷中
一兎角人の御見分け無御座候由被仰下候。誠に御親切なる御尋と存候。左樣迄に打わり被仰下候儀に御座候間、尙又委細に可申上候。前書に申進候手前の御物ずきを御立被成候と申候も、見えぬ故の事に候。畢竟は御一人の誤にても無御座、世俗の惡習にて候。世俗の惡習にて人人自分にぬりかくし申候故、滿世界霧の內の如く罷成候。國初の諸將は皆艱阻險難を歷練したる人故、治亂盛衰の道こそは暗く候共、人情世態には能々諳んじ被申候て、今時の人のごとく物を氣遣ふ心は無之候。治平久敷續き、世祿の人上に居、幼少より富貴に成長して、人情世態を歷練なく、物やはらかにそだてられ、心次第に細膩になり、物を氣遣心つよく、それよりして仕置次第に細になり、過失を咎むる事甚しくて、下をも過失なき樣に押へかゝへするを今時はよき役人と申候。是故に面々も過失なき樣にと心懸け、子共をも其樣に敎いれ候。是今世の習俗にて、此心得故、人々物每に踏込深入する事なく、上をぬり隱す事を第一と仕候。
新字:一兎角人の御見分け無御座候由被仰下候。誠に御親切なる御尋と存候。左様迄に打わり被仰下候儀に御座候間、尚又委細に可申上候。前書に申進候手前の御物ずきを御立被成候と申候も、見えぬ故の事に候。畢竟は御一人の誤にても無御座、世俗の悪習にて候。世俗の悪習にて人人自分にぬりかくし申候故、満世界霧の内の如く罷成候。国初の諸将は皆艱阻険難を歴練したる人故、治乱盛衰の道こそは暗く候共、人情世態には能々諳んじ被申候て、今時の人のごとく物を気遣ふ心は無之候。治平久敷続き、世禄の人上に居、幼少より富貴に成長して、人情世態を歴練なく、物やはらかにそだてられ、心次第に細膩になり、物を気遣心つよく、それよりして仕置次第に細になり、過失を咎むる事甚しくて、下をも過失なき様に押へかゝへするを今時はよき役人と申候。是故に面々も過失なき様にと心懸け、子共をも其様に教いれ候。是今世の習俗にて、此心得故、人々物毎に踏込深入する事なく、上をぬり隠す事を第一と仕候。
書き下し
一兎角人の御見分け無御座候由被仰下候。誠に御親切なる御尋と存候。左様迄に打わり被仰下候儀に御座候間、尚又委細に可申上候。前書に申進候手前の御物ずきを御立被成候と申候も、見えぬ故の事に候。畢竟は御一人の誤にても無御座、世俗の悪習にて候。世俗の悪習にて人人自分にぬりかくし申候故、満世界霧の内の如く罷成候。国初の諸将は皆艱阻険難を歴練したる人故、治乱盛衰の道こそは暗く候共、人情世態には能々諳んじ被申候て、今時の人のごとく物を気遣ふ心は無之候。治平久敷続き、世禄の人上に居、幼少より富貴に成長して、人情世態を歴練なく、物やはらかにそだてられ、心次第に細膩になり、物を気遣心つよく、それよりして仕置次第に細になり、過失を咎むる事甚しくて、下をも過失なき様に押へかゝへするを今時はよき役人と申候。是故に面々も過失なき様にと心懸け、子共をも其様に教いれ候。是今世の習俗にて、此心得故、人々物毎に踏込深入する事なく、上をぬり隠す事を第一と仕候。
現代語訳
とかく人の見分けがつかないとのこと、まことにご親切なお尋ねと存じます。そこまで打ち明けてお尋ねくださったのですから、なお詳しく申し上げます。前の手紙で「ご自分の物好きをお立てになる」と申したのも、見えないゆえのことです。結局はあなたお一人の誤りでもなく、世俗の悪習です。世俗の悪習で人々が自分を塗り隠すので、世界中が霧の中のようになっているのです。国初(江戸幕府の初め)の諸将はみな困難や危険を経験した人なので、治乱盛衰の道には暗くても、人情や世の有様にはよく通じておられて、今の人のように物事を気づかう心はありませんでした。泰平が久しく続き、世襲の禄を受ける人が上に立ち、幼いころから富貴に育ち、人情世態の経験がなく、物柔らかに育てられて、心がしだいに細かくなり、物事を気づかう心が強くなり、それにつれて仕置き(政治のやり方)もしだいに細かくなって、過失を咎めることがはなはだしくなり、下の者をも過失のないように押さえつけて抱え込むのを、今どきはよい役人と言います。だから各人も過失のないようにと心がけ、子供にもそのように教え込みます。これが今の世の習俗であり、この心得のために、人々は何事にも踏み込んで深入りすることがなく、上辺を塗り隠すことを第一としています。
解説
この章句が説くこと
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