徂徠先生答問書 / 卷上
一御兩親樣佛法御信仰に候を御制當被成候由傳承候。日頃の御孝行とは相違なる御儀以の外なる次第と奉存候。末世之儒者は、聖人の道を我私物の樣に存候故、不覺一家を立候て、孟子は楊墨と爭ひ、宋儒は佛老と爭被申候。其心入を尋候得ば、畢竟嫉妬之心にて淺增き次第に候。聖人の道は、國家を平治する大道に候故、佛法抔と肩をならべ申候樣なる事にては無御座候。佛法は其一人の身心を治め候事を敎へ申候へば、曾て聖人の道の構ひに成候物にて無御座候。然れば相手にも足り不申候物に候を、相手にいたし目にかけ申候事、世俗に申候職仇とやらんに相似申候、宋儒の學問は元佛法より出候故、似たることを嫌ひ候て爭ひ候事もことはりにて候。古學をも被成候仁の、其餘習に御ひかれ、不孝の罪に御陷候事、無勿體儀と存候。
新字:一御両親様仏法御信仰に候を御制当被成候由伝承候。日頃の御孝行とは相違なる御儀以の外なる次第と奉存候。末世之儒者は、聖人の道を我私物の様に存候故、不覚一家を立候て、孟子は楊墨と争ひ、宋儒は仏老と争被申候。其心入を尋候得ば、畢竟嫉妬之心にて浅增き次第に候。聖人の道は、国家を平治する大道に候故、仏法抔と肩をならべ申候様なる事にては無御座候。仏法は其一人の身心を治め候事を教へ申候へば、曽て聖人の道の構ひに成候物にて無御座候。然れば相手にも足り不申候物に候を、相手にいたし目にかけ申候事、世俗に申候職仇とやらんに相似申候、宋儒の学問は元仏法より出候故、似たることを嫌ひ候て争ひ候事もことはりにて候。古学をも被成候仁の、其余習に御ひかれ、不孝の罪に御陥候事、無勿体儀と存候。
書き下し
一御両親様仏法御信仰に候を御制当被成候由伝承候。日頃の御孝行とは相違なる御儀以の外なる次第と奉存候。末世之儒者は、聖人の道を我私物の様に存候故、不覚一家を立候て、孟子は楊墨と争ひ、宋儒は仏老と争被申候。其心入を尋候得ば、畢竟嫉妬之心にて浅增き次第に候。聖人の道は、国家を平治する大道に候故、仏法抔と肩をならべ申候様なる事にては無御座候。仏法は其一人の身心を治め候事を教へ申候へば、曽て聖人の道の構ひに成候物にて無御座候。然れば相手にも足り不申候物に候を、相手にいたし目にかけ申候事、世俗に申候職仇とやらんに相似申候、宋儒の学問は元仏法より出候故、似たることを嫌ひ候て争ひ候事もことはりにて候。古学をも被成候仁の、其余習に御ひかれ、不孝の罪に御陥候事、無勿体儀と存候。
現代語訳
ご両親が仏法を信仰なさっているのを、あなたがお止めになったと伝え聞きました。日ごろのご孝行とは食い違う、もってのほかのことと存じます。末世の儒者は聖人の道を自分の私物のように思っているので、知らず知らず一家(一つの党派)を立て、孟子は楊朱・墨子と争い、宋の儒者は仏教・老荘と争いました。その心根を尋ねれば、結局は嫉妬の心であって浅ましいことです。聖人の道は国家を平らかに治める大道ですから、仏法などと肩を並べるようなものではありません。仏法はその人一人の身と心を治めることを教えるものですから、もともと聖人の道の差し障りになるものではありません。そうであれば相手にするにも足りないものなのに、相手にして目の敵にするのは、世間でいう「職仇」(同業者どうしの敵視)とやらに似ています。宋儒の学問はもともと仏法から出たものなので、似たものを嫌って争うのも無理はありません。古学をなさっている方が、その古い習いに引かれて不孝の罪に陥られるのは、もったいないことと存じます。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 白起王翦列伝韓・趙恐れ、蘇代をして幣を厚くして秦の相応侯に説かしめて曰く、「武安君は馬服子を禽にせるか」と。曰く、「然り」と。また曰く、「即ち邯鄲を囲まんとするか」と。曰く、「然り」と。「趙亡びば則ち秦王は王たらん、武安君は三公と為らん。武安君の秦の為に戦ひ勝ち攻め取る所の者は七十余城、南のかた鄢・郢・漢中を定め、北のかた趙括の軍を禽にす。周・召・呂望の功と雖もこれに益さず。今、趙亡びて、秦王王たらば、則ち武安君必ず三公と為らん。君能くこれが下と為らんか。これが下と為るを欲すること無しと雖も、固より已むを得ざらん。秦嘗て韓を攻め、邢丘を囲み、上党を困しむ。上党の民皆反りて趙の為にす。天下の秦の民たるを楽しまざるの日久し。今、趙を亡ぼさば、北地は燕に入り、東地は斉に入り、南地は韓・魏に入らん、則ち君の得る所の民は幾何人も亡し。故に因りてこれを割かしめ、以て武安君の功と為すこと無きに如かず」と。是に於いて応侯、秦王に言ひて曰く、「秦の兵労る、請ふ韓・趙の地を割きて以て和するを許し、且つ士卒を休めん」と。王これを聴き、韓の垣雍・趙の六城を割きて以て和す。正月、皆兵を罷む。武安君これを聞き、是に由りて応侯と隙有り。
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尚書・秦誓人の技有るや、己に之有るが若くし、人の彥聖なるや、其の心之を好む。
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史記 老子韓非列伝人或いは其の書を伝へて秦に至る。秦王、孤憤・五蠹の書を見て曰く、「嗟乎、寡人此の人を見、之と游ぶを得ば、死すとも恨みじ」と。李斯曰く、「此れ韓非の著す所の書なり」と。秦因りて急に韓を攻む。韓王、始め非を用ゐず、急なるに及び、乃ち非を遣り秦に使ひせしむ。秦王之を悦ぶも、未だ信用せず。李斯・姚賈之を害み、之を毀りて曰く、「韓非は韓の諸公子なり。今王、諸侯を并せんと欲するに、非は終に韓の為にして秦の為にせず、此れ人の情なり。今王用ゐずして久しく留めて之を帰すは、此れ自ら患ひを遺すなり。過法を以て之を誅するに如かず」と。秦王、以て然りと為し、吏に下して非を治む。李斯、人をして非に薬を遺らしめ、自殺せしむ。韓非、自ら陳べんと欲するも、見ゆるを得ず。秦王後に之を悔い、人をして之を赦さしむるに、非已に死せり。申子・韓子皆書を著し、後世に伝はり、学ぶ者多く有り。余独り韓子の説難を為りて自ら脱する能はざりしを悲しむのみ。
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人物志・釋爭前に在る者は然れば之を害せられ、功有る者は人之を毀り、毀敗する者は人之を幸とす。
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