春秋左氏伝 / 哀公二十七年 謀は始・衷・終を挙ぐ
不卜敵齊。使謂成子曰。大夫陳子。陳之自出。陳之不祀。鄭之罪也。故寡君使瑤察陳衷焉。謂大夫其恤陳乎。若利本之顛。瑤何有焉。成子怒曰。多陵人者皆不在。知伯其能久乎。中行文子告成子。曰。有自晉師告寅者。將為輕車千乘。以厭齊師之門。則可盡也。成子曰。寡君命恆曰。無及寡。無畏眾。雖過千乘。敢辟之乎。將以子之命告寡君。文子曰。吾乃今知所以亡。君子之謀也。始衷終皆舉之。而後入焉。今我三不知而入之。不亦難乎。公患三桓之侈也。欲以諸侯去之。三桓亦患公之妄也。故君臣多間。公游于陵阪。遇孟武伯於孟氏之衢。曰。請有問於子。余及死乎。對曰。臣無由知之。三問。卒辭不對。公欲以越伐魯。而去三桓。秋。八月。甲戌。公如公孫有陘氏。因孫於邾。乃遂如越。國人施公孫有山氏。
新字:不卜敵斉。使謂成子曰。大夫陳子。陳之自出。陳之不祀。鄭之罪也。故寡君使瑤察陳衷焉。謂大夫其恤陳乎。若利本之顛。瑤何有焉。成子怒曰。多陵人者皆不在。知伯其能久乎。中行文子告成子。曰。有自晋師告寅者。将為軽車千乗。以厭斉師之門。則可尽也。成子曰。寡君命恒曰。無及寡。無畏衆。雖過千乗。敢辟之乎。将以子之命告寡君。文子曰。吾乃今知所以亡。君子之謀也。始衷終皆舉之。而後入焉。今我三不知而入之。不亦難乎。公患三桓之侈也。欲以諸侯去之。三桓亦患公之妄也。故君臣多間。公游于陵阪。遇孟武伯於孟氏之衢。曰。請有問於子。余及死乎。対曰。臣無由知之。三問。卒辞不対。公欲以越伐魯。而去三桓。秋。八月。甲戌。公如公孫有陘氏。因孫於邾。乃遂如越。国人施公孫有山氏。
書き下し
齊に敵することを卜せず」と。成子に謂はしめて曰く、「大夫陳子は、陳の自りて出づるなり。陳の祀られざるは、鄭の罪なり。故に寡君、瑤をして陳の衷を察せしむ。謂ふ、大夫其れ陳を恤へんか、と。若し本の顛るるを利とせば、瑤何か有らん」と。成子怒りて曰く、「多く人を陵ぐ者は皆在らず。知伯其れ能く久しからんや」と。中行文子、成子に告げて曰く、「晉師より寅に告ぐる者有り。將に輕車千乘を為りて、以て齊師の門に厭せんとす、と。則ち盡す可きなり」と。成子曰く、「寡君、恆に命じて曰く、『寡に及ぶこと無かれ、衆を畏るること無かれ』と。千乘に過ぐと雖も、敢へて之を辟けんや。將に子の命を以て寡君に告げんとす」と。文子曰く、「吾乃ち今、亡ぶる所以を知る。君子の謀るや、始・衷・終、皆之を舉げて、而る後に焉に入る。今、我、三つながら知らずして之に入る。亦た難からずや」と。公、三桓の侈を患へ、諸侯を以て之を去らんと欲す。三桓も亦た公の妄を患ふ。故に君臣、間多し。公、陵阪に游び、孟武伯に孟氏の衢に遇ひて曰く、「請ふ、子に問ふこと有らん。余、死に及ばんか」と。對へて曰く、「臣、由りて之を知る無し」と。三たび問ふ。卒に辭して對へず。公、越を以て魯を伐ちて三桓を去らんと欲す。秋八月甲戌、公、公孫有陘氏に如き、因りて邾に孫れ、乃ち遂に越に如く。國人、公孫有山氏に施す。
現代語訳
斉と戦うことは占っていない」。そして使者に成子(陳成子)へ言わせた。「大夫の陳子は、陳の国から出た家柄である。陳の祭祀が絶えたのは鄭の罪だ(鄭が陳を滅ぼした楚に与したことを指す)。だからわが君は瑤(知伯)に陳の事情を調べさせたのだ。大夫はきっと陳のことを気にかけているだろうと思って。もし自分の根本が倒れたのを利益とするのなら、私の知ったことではない」。成子は怒って言った。「人を多く踏みつけにする者は、みないなくなった。知伯が長く続くものか」。中行文子(荀寅、晋から斉に亡命していた)が成子に告げて言った。「晋の軍から私寅に知らせてきた者がいます。軽車千乗をそろえて斉の軍の陣門に攻めかかるつもりだとのこと。そうなれば斉の軍は全滅しかねません」。成子は言った。「わが君は私恆(陳成子の名)に『少ない敵を追うな、多い敵を恐れるな』と命じられた。たとえ千乗を超えようと、どうして避けようか。あなたのこの言葉は、わが君にお伝えしよう」。文子は言った。「私はいまになって、自分が亡びた理由が分かった。君子が謀るときは、始め・中ほど・終わりのすべてを考えてから、事に取りかかる。いま私は三つとも分からないまま口を出した。なんと難しいことか」。魯の哀公は三桓(季孫・孟孫・叔孫の三家)の専横を憂え、諸侯の力を借りて除こうとした。三桓もまた公の無分別を憂えていた。それで君臣の間には隙間が多かった。公は陵阪に遊び、孟氏の屋敷の前の辻で孟武伯に出会って言った。「あなたに尋ねたいことがある。私は天寿を全うできるだろうか」。武伯は答えた。「私には知るすべがございません」。三度尋ねたが、最後まで答えを辞退した。公は越の力で魯を討って三桓を除こうとした。秋八月甲戌の日、公は公孫有陘氏(公孫有山)の家に行き、そこから邾に亡命し、さらに越に行った。国の人々は公孫有山氏に罪を負わせた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』昭公三十二年 士彌牟、成周を営む冬、十一月、晉の魏舒・韓不信、京師に如き、諸侯の大夫を狄泉に合し、盟を尋(あたた)め、且つ成周に城くことを令す。魏子南面す。衛の彪徯曰く、「魏子必ず大咎有らん。位を干して以って大事を令するは、其の任に非ざるなり。詩に曰く、『天の怒りを敬し、敢へて戲豫せず。天の渝(かは)るを敬し、敢へて馳驅せず』と。況んや敢へて位を干して、以って大事を作さんや」と。己丑、士彌牟成周を營み、丈數を計り、高卑を揣り、厚薄を度り、溝洫を仞り、土方を物し、遠邇を議し、事期を量り、徒庸を計り、財用を慮り、餱糧を書し、以って役を諸侯に令す。役を屬(あつ)めて丈を賦し、書して以って帥に授けて、諸を劉子に效(いた)す。韓簡子之に臨み、以って成命と為す。
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『春秋左氏伝』襄公二十五年 政は農功の如し楚の蒍掩司馬と為る。子木賦を庀め、甲兵を數へしむ。甲午、蒍掩土田を書し、山林を度り、藪澤を鳩め、京陵を辨じ、淳鹵を表し、疆潦を數へ、偃豬を規り、原防を町し、隰皋に牧し、衍沃を井し、入を量りて賦を脩め、車を賦し、馬を籍し、車兵・徒卒・甲楯の數を賦す。既に成り、以て子木に授く。禮なり。十二月、吳子諸樊楚を伐ち、以て舟師の役に報ゆ。巢に門す。巢の牛臣曰く、「吳王は勇にして輕し。若し之を啟かば、將に親ら門せんとす。我獲て之を射ば、必ず殪れん。是の君や死なば、彊其れ少しく安からん」と。之に從ふ。吳子焉に門す。牛臣短牆に隱れて以て之を射る。卒す。楚子舒鳩を滅ぼすを以て子木を賞す。辭して曰く、「先大夫蒍子の功なり」と。以て蒍掩に與ふ。晉の程鄭卒す。子產始めて然明を知り、政を為すを問ふ。對へて曰く、「民を視ること子の如くし、不仁者を見ては之を誅すること、鷹鸇の鳥雀を逐ふが如くす」と。子產喜びて以て子大叔に語り、且つ曰く、「他日吾蔑の面を見しのみ。今吾其の心を見たり」と。子大叔政を子產に問ふ。子產曰く、「政は農功の如し。日夜之を思ひ、其の始めを思ひて其の終はりを成す。朝夕にして之を行ひ、行ひ思ひを越ゆること無きこと、農の畔有るが如くせば、其の過ち鮮からん」と。
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『驢鞍橋』卷下去る時、我も同組にて、大坂御番に当ることあり、高木主水の所にて頭振舞有り、互に乱酒に成り、打解け、跡を頼むそ、先を頼むそと、道中宿々の約束迄云ひ合はし、みたれたる座に成て果てす、鈴木殿は常に人に混せす、打上て柱に打懸り、きつとすみの目使つて居る人也。其日も如是して居給ひけるか、つゝと坐中に出て、扨て扨て各はねはいことを仰せ有る者哉道中跡先のこと迄、今約束有りても、争か当らんや。分別の仕置用に立たぬ物也。何が大事の御番に参る身か、我人生て参らんす、門を出るよりつんと命を捨て死切て出て、其時々に随て事を作さん迄よと云ひ給へば、頭を始め皆尤もと受けられたり。一坐の人々胸つゝ切れて、心安く成りたると云はれたると也。
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説苑・說叢謁問析辭には應ずる勿かれ、怪言虛說には稱する勿かれ。謀事に先んずれば則ち昌え、事謀に先んずれば則ち亡ぶ。
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李衛公問対・卷上《孫子》に謂う、『多筭は少筭に勝つ』と。以て少筭の無筭に勝つを知る有り。凡そ事皆な然り。
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史記 河渠書五千頃は故尽く河壖の棄地にして、民、其の中に茭牧するのみ。今之に溉田せば、度るに穀二百万石以上を得可し。穀は渭より上り、関中と異なる無く、而して砥柱の東は復た漕する無かる可し」と。天子以て然りと為し、卒数万人を発して渠田を作る。数歳にして、河移徙し、渠利あらず、則ち田する者種を償ふ能はず。之を久しくして、河東の渠田廃れ、越人に予へ、少府をして以て稍入と為さしむ。其の後、人の上書して褒斜の道及び漕の事を通ぜんと欲する有り、御史大夫張湯に下す。湯、其の事を問ひ、因りて言ふ、「蜀に抵るに故道よりす。故道は阪多く、回遠なり。今、褒斜の道を穿たば、阪少なく、近きこと四百里。而して褒水は沔に通じ、斜水は渭に通ず、皆以て船漕を行ふ可し。漕は南陽より沔を上りて褒に入り、褒の水の絶ゆるより斜に至るまで、間百余里、車を以て転じ、斜より下りて渭に下る。此の如くせば、漢中の穀致す可く、山東は沔よりして限り無く、砥柱の漕より便なり。且つ褒斜の材木・竹箭の饒かなること、巴蜀に擬す」と。天子以て然りと為し、湯の子卬を拝して漢中の守と為し、数万人を発して褒斜の道五百余里を作る。道果して便にして近し。而れども水湍石にして、漕す可からず。其の後、荘熊羆言ふ、「臨晋の民、洛を穿ちて以て重泉以東の万余頃の故鹵地に溉がんことを願ふ。誠に水を得ば、畝ごとに十石ならしむ可し」と。是に於て為に卒万余人を発して渠を穿ち、徴より洛水を引きて商顔山の下に至る。岸善く崩る。乃ち井を鑿つこと、深き者四十余丈。往往に井を為り、井の下相通じて水を行る。水穨れて以て商顔を絶ち、東のかた山嶺に至るまで十余里の間なり。井渠の生ずること此より始まる。渠を穿ちて龍骨を得、故に名づけて龍首渠と曰ふ。之を作ること十余歳、渠頗る通ずるも、猶ほ未だ其の饒を得ず。河、瓠子に決せし後より二十余歳、歳因りて以て数々登らず、而して梁・楚の地尤も甚だし。
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