言志四録 / 言志晩録 第百二十二条 終始を熟図す
凡事有似有功而無功。有似有弊而無弊。況於經數年見効之事。宜先熟圖其終始而後做起。不然。功必不完。或中廢。至於不可償。
新字:凡事有似有功而無功。有似有弊而無弊。況於経数年見効之事。宜先熟図其終始而後做起。不然。功必不完。或中廃。至於不可償。
書き下し
凡そ事は功有るに似て功無き有り、弊有るに似て弊無き有り。況や数年を経て効を見るの事に於てをや。宜しく先づ其の終始を熟図して、而る後に做し起すべし。然らずんば、功必ず完からず、或は中ごろに廃し、償ふべからざるに至らん。
現代語訳
およそ物事には、成果があるように見えて実は成果のないものがあり、弊害があるように見えて実は弊害のないものがある。まして数年たってようやく効果が現れる事業ではなおさらである。まずその始めから終わりまでを十分に計画してから着手すべきである。そうでなければ、成果は必ず不完全に終わり、あるいは途中で打ち切られ、取り返しのつかないことになる。
解説
物事の成果と弊害は見かけ通りとは限らないという観察から、長期の事業の進め方を説いた条です。目の前では成果に見えても実は無益なこと、弊害に見えても実は害のないことがある。まして効果が出るまでに数年かかる事業では、途中の見かけで判断を誤りやすい。だからこそ始める前に終わりまでを熟慮し、計画してから着手せよと言います。そうしなければ中途半端に終わるか、途中で投げ出され、取り返しのつかないことになる。政治や藩政改革を念頭に置いた言葉でしょう。短期の成果で評価されがちな今日、長い時間をかけて効く施策をどう設計し、どう続けるかを考える手がかりになる一条です。
この章句が説くこと
計画長期視点熟慮事業為政
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