春秋左氏伝 / 哀公二十六年 大尹、君の死を匿す
冬十月。公游于空澤。辛巳。卒于連中。大尹興空澤之士千甲。奉公自空桐入。如沃宮。使召六子曰。聞下有師。君請六子畫。六子至。以甲劫之。曰君有疾病。請二三子盟。乃盟于少寢之庭。曰無為公室不利。大尹立啟。奉喪殯于大宮。三日而後國人知之。司城茷使宣言于國曰。大尹惑蠱其君而專其利。令君無疾而死。死又匿之。是無他矣。大尹之罪也。得夢啟。北首而寢於廬門之外。己為鳥而集於其上。咮加於南門。尾加於桐門。曰。余夢美。必立。大尹謀。曰。我不在盟。無乃逐我。復盟之乎。使祝為載書。六子在唐孟。將盟之。祝襄以載書告皇非我。皇非我因子潞。門尹得。左師謀曰。民與我。逐之乎。皆歸授甲。使徇于國曰。
新字:冬十月。公游于空沢。辛巳。卒于連中。大尹興空沢之士千甲。奉公自空桐入。如沃宮。使召六子曰。聞下有師。君請六子画。六子至。以甲劫之。曰君有疾病。請二三子盟。乃盟于少寝之庭。曰無為公室不利。大尹立啓。奉喪殯于大宮。三日而後国人知之。司城茷使宣言于国曰。大尹惑蠱其君而専其利。令君無疾而死。死又匿之。是無他矣。大尹之罪也。得夢啓。北首而寝於廬門之外。己為鳥而集於其上。咮加於南門。尾加於桐門。曰。余夢美。必立。大尹謀。曰。我不在盟。無乃逐我。復盟之乎。使祝為載書。六子在唐孟。将盟之。祝襄以載書告皇非我。皇非我因子潞。門尹得。左師謀曰。民与我。逐之乎。皆帰授甲。使徇于国曰。
書き下し
冬十月、公、空澤に游ぶ。辛巳、連中に卒す。大尹、空澤の士千甲を興し、公を奉じて空桐より入り、沃宮に如く。六子を召さしめて曰く、「下に師有りと聞く。君、六子の畫を請ふ」と。六子至る。甲を以て之を劫かして曰く、「君、疾病有り。請ふ、二三子盟へ」と。乃ち少寢の庭に盟ひて曰く、「公室の不利を為すこと無かれ」と。大尹、啟を立て、喪を奉じて大宮に殯す。三日にして後に國人之を知る。司城茷、國に宣言せしめて曰く、「大尹、其の君を惑蠱して其の利を專らにす。今、君、疾無くして死す。死して又之を匿す。是れ他無し。大尹の罪なり」と。得、夢むらく、啟、北首して廬門の外に寢ね、己は鳥と為りて其の上に集まり、咮は南門に加はり、尾は桐門に加はる、と。曰く、「余が夢は美なり。必ず立たん」と。大尹謀りて曰く、「我、盟に在らず。乃ち我を逐ふこと無からんや。復た之と盟はんか」と。祝をして載書を為らしむ。六子、唐孟に在り。將に之と盟はんとす。祝襄、載書を以て皇非我に告ぐ。皇非我、子潞・門尹得・左師に因りて謀りて曰く、「民、我に與す。之を逐はんか」と。皆歸りて甲を授け、國に徇へしめて曰く、
現代語訳
冬十月、宋の景公は空沢に遊びに出かけ、辛巳の日に連中の館で亡くなった。大尹は空沢の兵士から鎧武者千人を動員し、公の遺体を奉じて空桐から都に入り、沃宮へ行った。そして使いを出して六人の卿を呼ばせ、「近くに敵の軍がいると聞いた。君が六卿に策を練ってほしいと仰せだ」と言わせた。六卿がやって来ると、鎧武者で脅して言った。「君は重い病にかかっておられる。どうかあなたがたは盟約を結んでいただきたい」。そこで少寝の庭で盟約して「公室に不利なことをしない」と誓った。大尹は啓を君に立て、遺体を奉じて大宮(祖廟)に仮安置した。三日たって、ようやく国の人々は公の死を知った。司城の茷(楽茷)は国中に触れを出させた。「大尹は君を惑わし、利益を独り占めした。いま、君は病もないのに亡くなり、亡くなった後もそれを隠した。これはほかでもない、大尹の罪である」。得は夢を見た。啓が北枕で廬門の外に寝ていて、自分は鳥となってその上に止まり、くちばしは南門に、尾は桐門にかかっていた。得は「私の夢は吉だ。必ず君に立つだろう」と言った。大尹は謀って言った。「私は盟約に加わっていない。私を追い出そうとするのではないか。もう一度盟約させようか」。そこで祝(神官)に盟約の文書を作らせた。六卿は唐孟にいた。大尹はそこで盟約させようとした。祝の襄が盟約の文書のことを皇非我(大司馬)に知らせた。皇非我は子潞(楽茷)・門尹得(楽得)・左師(霊不緩)とともに謀って言った。「民はわれらの味方だ。大尹を追い出そうではないか」。みな家に帰って兵に鎧を配り、国中に触れて回らせて言った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 秦始皇本紀黔首修絜にして、人同則を楽しみ、嘉して太平を保つ。後敬みて法を奉ぜば、常治極まり無く、輿舟傾かず。従臣烈を誦し、此の石に刻さんことを請ひ、休銘を光垂す。還りて呉を過ぎ、江乗より渡る。海上に并ひ、北のかた瑯邪に至る。方士徐巿等海に入りて神薬を求むるも、数歳にして得ず、費多く、譴めらるるを恐れ、乃ち詐りて曰く、「蓬萊の薬得可し。然れども常に大鮫魚の苦しむる所と為る、故に至るを得ず。願はくは善く射る者を請ひて与に倶にし、見れば則ち連弩を以て之を射ん」と。始皇夢に海神と戦ふ、人の状の如し。占夢に問ふ。博士曰く、「水神は見る可からず、大魚蛟龍を以て候と為す。今上禱祠備はり謹めるに、此の悪神有り。当に除去すべし、而して善神致す可し」と。乃ち海に入る者をして巨魚を捕ふる具を齎さしめ、而して自ら連弩を以て大魚の出づるを候ひて之を射んとす。瑯邪より北して栄成山に至るも、見ず。之罘に至り、巨魚を見、一魚を射殺す。遂に海に并ひて西す。平原津に至りて病む。始皇死を言ふを悪む。群臣敢へて死の事を言ふ莫し。上の病益甚だし。乃ち璽書を為りて公子扶蘇に賜ひて曰く、「喪と咸陽に会して葬れ」と。書已に封じ、中車府令趙高の符璽の事を行ふ所に在りて、未だ使者に授けず。七月丙寅、始皇沙丘の平台に崩ず。丞相斯上の外に崩じたるが為に、諸公子及び天下の変有らんことを恐れ、乃ち之を秘して、喪を発せず。棺は轀涼車の中に載せ、故の幸宦者参乗し、至る所上食す。百官奏事すること故の如く、宦者輒ち轀涼車の中より其の奏事を可とす。独り子胡亥・趙高及び幸する所の宦者五六人のみ上の死せるを知る。趙高故嘗て胡亥に書及び獄律令法の事を教ふ。胡亥私かに之を幸す。
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